映画を観るのはとても大変な行為なのだということをチミノの映画を観ると感じてしまうのは自分だけだろうか。
いや、そこにはもちろん至福の時間があるのだが、しかしその幸福な時間を受け取るのも決して生易しいものではない。
初めて観た『ディア・ハンター』は、大きく分けてベトナム戦争へと出兵する直前の若者たちの前日譚と、ベトナムを過ごすマイケルとニックとスティーヴン、それからベトナムから戻ってからの三つの時間が描かれる。
鉄鋼所での労働から映画は始まるが、それでも映画はそこに映る熱と音圧で生き生きとしている。その溶ける鉄のような熱量を持った若者たちが結婚式で踊り、歌い、飲み、騒ぐ様子はとても幸福な記録であった。
それはその熱狂から外れた狩りの場であっても変わりなく、傍若無人な身振りとそれに見合うだけの秘めたる可能性を抱えた彼らの中で、一人静かに山と向き合うマイケルだけは、可能性という言葉では見据えることのできない遠くを見ようとしていたように思う。
ベトナムに行った彼らに訪れるのはとても厳しいものだった。
自らの意志と力によって死が訪れるのではなく、運と誰かの気まぐれに生が支配されている。川の中の牢に閉じ込められ、連れ出されるときはロシアンルーレットの賭けの道具にされる。そんな状況で生きているのは、ほとんど死んでいるのと変わりないようにさえ思う。それでもマイケルだけが目の前の死よりも遠くを見つめ、生を手に入れる。
戦争が落ち着きマイケルが地元に帰ると、町中に帰りを待ちわびる気配が見える。
しかし歓迎されるべきものなど無いという事を知るマイケルは、少し離れたところに宿を取る。それを知らない旧友たちは昔と何も変わらない様子で暴れるように喋りながらマイケルの帰りを待ちわびている。
かつて至福に感じた友人たちのはしゃぐ様子が、もはや素直に楽しめるものではなくなってしまったことに戸惑い涙した。もう、彼の知っている故郷には帰る事ができなくなったような、大きな時空の断裂がそこに生じてしまったような。戦争というタイムマシンにでも乗ったかのような時間が見えてくる。
町に戻ってからのマイケルは、その時間のずれ、空間のずれ、感情のずれを直そうとするかのようである。
しかし直そうとすればするほど、直らないことだけがはっきりと浮かび上がる。
山が好きで、木が好きだと言っていたニックは、マイケルの「鹿は一発で仕留める」という言葉にある「一発」の意味を書き換えてしまう。
どこにも戻ることはできない。
そしてここで起こったことは決して幸福なことではない。それでも、彼らの生は祝福されている。映画はそのことを証明する。少なくとも、一人の観客として過酷だが幸福な時間を過ごした。