『ウィンターズ・ボーン』に寝坊したら樋口さんに「ボコボコのタコ殴りにしてやりたい」と言われ怒られた。
そもそも公開時に観ているし、あまり何度も観たい映画ではないので腰が重かったのだが。だって、あの冷たくて恐ろしいアメリカの空気は、そうそう触れたいものではないもの。
でもどうやら今年の裏メインはどうやら『4:44』と『ウィンターズ・ボーン』らしく、どちらも爆音で観る予定はなかったのだがタコ殴りにされるのは嫌なので、バスの予約を変更してオールナイトまで残って観ることにする。
爆音映画祭で上映される作品は、すべてがすべて主催者である樋口さんの意図通りに選ばれているはずもなく、予算と権利と周囲の推薦など様々な状況によって選ばれている。しかしそれは批評家樋口泰人がboidをやりながら周囲から嗅ぎ取る空気がふっとこの一週間に形作られる、そんな映画祭だと言っていいように思う。
それらの作品を一週間の間にまとめて観ていると、映画祭のテーマのようなものが毎年浮かび上がってくる。
今年は「そもそも死んでいる」ところから何をするか。そのことを描いた映画ばかりであったように思った。
この「そもそも死んでいる」という言葉は『4:44』でウィレム・デフォーが弟の自殺を説明する中で出て来た言葉だ。地球のオゾン層が破壊され人類が滅亡することが決定的となった物語に生きる彼らにとっては、これから訪れる死はすでに死んでいることと限りなく近い。しかしそれでも主人公たちはその死んでいる時間を生きる。そしてそれはカタルシスとは無縁の時間であった。
通常上映で観ていたときは、物語の突飛さと同じように映画全体が作られ誇張されたような印象が強かったが、爆音になったことによって街の雑踏が立って来て、より日常の時間に近いものを強く感じた。
『ウィンターズ・ボーン』は「そもそも死んでいる」父親が物語の軸にある。
正確には行方不明になった父親を探すうちに、そもそも死んでいたことが明らかになるのだが、ここで生きる主人公の少女と弟、妹は、父親の生死がどうであろうとも、これからも生きなくてはならない。そのために、主人公のジェニファー・ローレンスは何が問題なのかをはっきりと見つめ、父親を探し出し、死んでいるならば死を事実として浮かび上がらせる。
不確かな死の中に漂うものをはっきりと死を指を差すこと。ひょっとしたら『ヴァージニア』でヴァルキルマーがやっていたのはそのような仕事だったのかもしれない。
先の日記にも書いたが、チミノの作品にはアメリカンニューシネマによく似た敗北感が描かれている。「そもそも死んでいる」状況、言い換えればそもそも勝ちのない「そもそも敗北している」状況から物語が始まる。
しかし『ディア・ハンター』『サンダーボルト』『逃亡者』『天国の門』にしろ、決してその敗北からの脱出、反抗、あるいは勝利を描くことはない。むしろその敗北、死がよりはっきりと映される。『サンダーボルト』では曖昧になっていた強盗の行方を決着させ、『ディア・ハンター』ではベトナムから帰って来ない友人の行方を見納める。『逃亡者』では服役中であった主人公が逃げ出し、実刑よりも過酷なラストを迎える。『天国の門』ではよそ者として居場所を追われる人々が、居場所と命を失うまでが描かれていた。
映画はそれらの死を現実から先取りし、現実の代わりに映し出すことによって、観客は次の生を手にすることが出来る。そのことをチミノの映画は語る。
先取りされた死を自分のもとに取り戻すこと。それによって、人は、映画は、生き直す。そのようなこともあり得るのではないかと、オールナイト明けの夢見がちな頭で帰りのバスに揺られながら考えていた。