今年も爆音映画祭が始まりました。
初日のオープニング作品はマイケル・チミノの『天国の門』。
マイケル・チミノ。
午前十時の映画祭でやっていた『ディア・ハンター』でさえも見逃している者です。『大鹿村騒動記』で原田芳雄がやっていた店の名前は「ディア・イーター」だったよな?とか、そんな知識しかありませんでした。
で、いよいよ『天国の門』を観たわけですが。
ファーストカットのパレードから画面にみなぎる質量が尋常じゃない。
とにもかくにも人、人、人。画面に人があふれている。そして画面外も人であふれていることが容易に想像がつく、そんな空間が広がっている。
人が集まることの祝祭感に包まれ、その動きと感情のダイナミズムが世界の中心にある。
そう、かつてこんなにも世界の中心に人がいる時代があったのかと驚くと同時に、ここまで映画の中心に人が映し出されていることに感動する。
物語では彼らの尊厳、感情、言葉、行動、権利が奪われそうになる。
そこでは人は牛に居場所を奪われそうになり、言うなれば質量が資本に、重量感を備えたものが実態のないものに取ってかわる。
洋裁店の外で殴られる男を助けるとき、彼らの背後を走る馬車のけたたましい走行音は、そこに映らない街の人たちの日々の呼吸を感じさせるには十分だった。
車輪ひとつ取っても、今の車とは桁違いに大きい。その身振りの大きさにともなって震える空気の大きさに圧倒される。空気が、時代が、何もかもが今と違いすぎる。
映画会社をつぶしてしまった映画というだけあって、すべてのシーンの画面の充実がすばらしい。そういう意味でも、時代が違いすぎる。家々からの蒸気や、汽車の煙、砂埃などの粒子が舞う様子に、その時代の風が吹きこんできた。
あまりに素晴らしい映画による映画祭の幕開け。