爆音で『Playback』を観て、初めてこの映画に宿っていた痛みのようなものに触れた気がする。
プリントの削れが多いのか、パラも多く、タテ傷も入っている。
無音のシーンでもチリチリとノイズが鳴る。そんな中での爆音上映。
車で水戸に向かうシーン、「ンーーー」というなんとも言えない低い走行音が車内響く。
それと同じような低い音が、遠藤との打ち合わせのシーンだったか、何度か室内のシーンでも聴こえてきた。それはオルガンのようにかすかにコロコロと鳴り、車の走行音というよりも、一つ一つのタイヤの回転音を感じる。車もまたスケボーと同じように四つのタイヤがアスファルトに接することで動いているのだという当たり前のことを思い出す。
その低い回転音にプリントのチリチリという高音が混ざり、震災でひび割れたアスファルトをスケーターたちが走るシーンを2時間ずっと見続いているような感じがあった。
上映とともに走りはじめたプリントのアスファルトを映像がすべっていく、というような。
フィルム映写機には、光源に流れてきたフィルムを鉄板のようなもので挟んで瞬間的に止めて映像を映し出すための部品があり、それのことを「スケート」と言うのだが、まさしくプリントの上を映像というスケートが走っているような2時間だった。
そこにある生きることの痛み、時間を経過する事の疲労とでも言うようなものが、繰り返しの時間を過ごす事の根底に流れている、そのことをより強く感じた。
この映画で主人公の男は夢のような回り道の時間を経過することによって、たどり着けなかったかもしれない時間に行き着くことになる。
その回り道には常に喪失があるし、痛みがある。
しかしそこには多くの可能性の前に無自覚に傷つき疲れてしまった主人公を、それでももう一度マイクの前に立たせる力が宿っているのだろう。
モーターだって疲れるんだよと言っていたリムジンを思い出さずにはおれなかった。そんなことを言いながらでも、あのリムジンも明日にはまた走ったのだろうか。