EXPを終えて


6日から始まった「EXP / 牧野貴」も9日の同志社での上映で無事終了。
まずはご来場くださった多くのみなさま、どうもありがとうございました。


6日の岡山上映は聴くところによると予想していた人数の倍近い人たちが集まったとのことで、熱狂の中で牧野作品が迎えられたようです。ライブ上映が終わったあともお客さんがしばらく残り、感動の余韻を響かせ合うような時間が流れ、牧野さんのパフォーマンスもとても満足のいくものだったと言っておられた。
ここはとにかくカフェの環境が素晴らしい。それは上映環境というよりも、そこに流れている時間、スタッフの方が作ろうとしている場の良さがなによりのように思う。これさえあれば、あとは作品さえ良ければどんな映画でも素晴らしい形で上映することが出来るんじゃないかとさえ思う。

7日は大阪、我々主催の上映。
当日の朝から3時間ちょっとで設営と本番のリハを完成させねばならなかったので、かなりのハードスケジュールではあったが、無事なにごともなく上映することが出来た。これに関しては毎度のことであるが、会場の準備などを一緒にやってくれる友人たちの力によるところが大きい。これについては感謝してもしきれないほどだが、その協力もあって、この日は本当に素晴らしい上映が出来たように思う。
上映環境についてはトークのときに牧野さんから「いい上映ができた」と満足の声をもらうほどであったが、どうして僕たち上映する側の人間がいいスクリーニングをすることにこだわるかというと、それは作り手が意図する光を忠実に再現することを目的とするというよりも、作り手が光を用いて意図する何か、牧野さんの言葉を借りるなら「スクリーンから栄養の塊が降ってくる」ようなものにしたいと思うからだ。
そのためには、限りなくストレスの無い上映環境が必要になる。
例えば光の中にあるはずの色が少なかったり、コントラストが適正でなかったりすると、その光から受け取るはずの情報が劣化した状態で観客の身体に入る。そうなると作り手の狙いを正確に読み込むためのハードルが高くなる。
牧野さんの作品のように圧倒的な情報量を短い時間に詰め込む作品の場合、ほんの少しの光や音の劣化によって観客が情報を読み込むために必要な時間がロスされると、どんどんと映画に置いて行かれることになる。それだけはなんとしても避けたい。牧野さん自身もそう思うからこそ、私物のプロジェクターを岡山にまでわざわざ持ち込んだのだろう。

そのことを機材的な側面ではなく空間的な側面で補助線を引いたのが8日のJAPONICAでのRuffiN’ vol.3であった。
基本的にはカフェバーでのDJパーティーである。このようなところで上映しても、そうなかなか映画に集中出来るものではないし、映画館のような贅沢な環境があるわけでもないから、先ほど言ったような技術的な条件としてはかなり不利になる。かなりの賭けのように思えるが、店に相談したところ、30分ほどの上映時間を完全暗転してもらい、フードもストップ。映画のために出来る限りのことを許してもらった。これについては、JAPONICAのスタッフが僕らと一緒になって良い場を作りたいと思ってくれなければ絶対にできなかった。本当に感謝している。
そこまで準備をして、いざ上映の時間になると、こちらの予想を遥かに上回る形で、誰もが集中して映画に向かう姿が見て取れた。それが下の写真である。
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映画は映画館だからいいものとして観れるのではない。本来、スクリーンと映写機さえあればどこででも見ることが出来るものなのだ。あとは鑑賞するためのコンディションをどうやって引き出すことが出来るか。映画館であればそれが映写環境であったり、座席、あるいは映画館そのものの空間の力なのだろうが、それが今回だとお酒と音楽だったり、親しい友人たちとの会話であったりという、スクリーンと並列に肩を並べるようなものだったのだろう。スクリーンと対面するしかない関係性を一旦崩したところから立ち上がる映画と言ってみることが出来るだろうか。
これほどまでに身近なものとして映画が映し出されるとは思いもしなかった。
牧野さんとしてもかなりの手応えがあったようで、パフォーマンスにもかなり満足しておられた。『The Intimate Stars』の長いイントロのあと、タイトルが映し出される瞬間の凛とした佇まいに思わず涙したが、上映後、観客のみなさんの楽しさで緩んだ表情に牧野さんの映画が迎え入れらる様子は、本当にうれしい瞬間であった。

そして9日の[+]上映。
まずヨハン・ルーフの『RECONNAISSANCE』は、一見するとなんの動きも無い映像の背景が、眼の錯覚かと疑うような速度でゆっくりと動く、それが何度もいろんなパターンで映し出されるという作品。以前観た『12 Explosion』同様、彼の作る作品は観客の身体にダイレンクトにアクセスし変化を促す。
ベン・ラッセルの『RIVER RITES』は去年の爆音映画祭以来の二度目であったが、それでも新鮮に映った。川辺で仕事や遊んだりしているどこかの部族の映像を逆再生しているというだけの非常にシンプルな作品だが、もちろんここには過剰な段取りが仕込まれている。
本来、正方向に進むはずの時間を逆転させることで、水遊びのようなシンプルな動きでさえもしぶきが水に吸い込まれるようになりとても刺激的なものになる。しかし川辺というロケーションはその流れを逆にしても違和感を感じないという不思議さを持つ。その川の中で布を広げ魚を捕ろうとする様子など、布が水の抵抗で広がっている方向とは逆方向に川は流れており、観たことも無い動きが現れていた。ここではそうしたたくさんの動きが捉えられている。水に飛び込む動きは飛び出すになっていたし、何か洗濯物をしながら岩に叩き付ける仕草も、洗濯物を岩から引きはがすようであった。そう、何よりこの映画が力強いのは、こうして観ることが出来る逆再生の動きを観ると同時に、その中に眠っている本来の正方向の動きが暴かれ続けることにある。
物語映画を観るとき、こうした仕草の一つ一つから記号を集め、観客は物語を立ち上げて行くが、この『RIVER RITES』は、身振りが逃れることの困難な記号的呪いを解放する力にあふれている。
それからこの日も上映に来られていた葉山嶺さんの『INITIAL VAPOR』。
葉山さんの作品を観たのは初めてだったのだけど、今回上映された作品の中では最も映されているものが不可解で、おそらく、冒頭しばらく映される海底洞窟のような神秘的な気配の漂う淡い世界はジオラマなのでは? と思われるが、そうした人工物と自然物を観るということへの批評性を備えた作品だったように思う。
ビルや道路などの人工物も、環境という視点でそれらを見ると都市のエコシステムが存在する。自然と人工物の間をうろうろと彷徨ってきた映画らしい映画だからか、上映中は暴走族のコール音のような正体不明のノイズがバンバンと鳴り、そういうアクシデントを呼び込んだという意味でもこの日一番野蛮な作品だったように思う。
それから『2012』。
ライヴ上映のときに二度観てきたが、完成版は初めて。
この作品はプルフリッヒ3D上映とすることで、「誰もが今観ているものが同じではない」ということをはっきりと認識する。これは牧野さんのこれまでの作品であってもまったく同じで、自らの作品について、映画という「栄養の塊」のようなものがあって、それを観た観客一人一人はその栄養からそれぞれ別の感情を精製してほしいと語っていた、そのことが具体的に眼に見えるようになっているようであった。
「プロパガンダのように一つの考えを映し出すことに抵抗感がある」と言っていたが、その対極のものとしての一つの映画の極点であろう。物語映画としては、ひょっとしたら『サウダーヂ』がやっていることはこれに近いかもしれない。
『2012』自体も、その3D化された竜巻の中に入り込んでしまうような作品で、その竜巻の中に吸い込まれたあらゆるイメージたちが不意に立ち上がっては消えて行く、その中で次第にイメージは粒子を捨てエッジのきいた世界へと進む。
途中で映像がデジタル化して以降、なんともポジティブな感情が沸き上がる。
映画を観て来てよかったと心から思える幸福な瞬間がラストに訪れたことに、未だに驚いている。
いったいあの光はなんだったのだろうか。今はまだ、うまく言葉が見つからない。
しかしこのような光がこのツアーの最後に現れたことで、これからも牧野さんの作品を上映して行こうと確信できた。
EXPはひとまずこれで終わったが、作家牧野貴の旅はいよいよこれから始まるところだ。
彼もまた、光を追いかける。私たちもまたそれを追いかけたい。