批評

review

ご無沙汰です。
どうにも何かを書く気が起きず、しばらく更新をほったらかしにしていました。
書いても仕方がない、何をやってもなんにもならない、このもやもやとしたものはなんなのか考えているところです。


もうしばらく前になるけれど、デジタル化されたゴダールの過去作がシネヌーヴォで上映されていて、ここ数年、自分が映画を見始めてから上映されてこなかった作品を何本かまとめて観た。
まだ学生だったころ、言ってもほんの7、8年前だけど、そのころはゴダールなんかだったら観るのは難しくなくって、それこそ『勝手にしやがれ』や『はなればなれに』『ウィークエンド』『フォーエヴァー・モーツアルト』なんかはみなみ会館のオールナイトで何度も観たし、わりとほとんどの作品はフィルムで観ているのだけど、それでも今回上映された『中国女』やジガ・ヴェルトフ集団の作品は権利が切れていたのかまったく上映されて来なかった。
『中国女』という作品を知ったのは青山真治著「われ映画を発見せり」を読んだときだった。それを読んだのはゴダールの作品を何か一本でも観るよりも後だったか先だったかは覚えてないけど、『中国女』という自分の知らない(しかも変なタイトルの)映画について観ないことにはさっぱり理解できないことが書かれていて、とにかく『中国女』という映画を見てみたいと、書かれている内容以前にその作品のことだけが強く記憶にインプットされた。
念願の『中国女』を(デジタルではあるけれど)観てから、その批評を数年ぶりに読み返してみた。そこには『中国女』という作品を相手にイマジナリーラインを切り口にして作品を丁寧に深く見つめる批評が載っていた。こういう批評は今では読むことができなくなったように思う。それは雑誌が力を失っているからということだけの理由ではないし、ウェブがあるからと言って書かれているわけでもないし(僕が知らないだけであるのかもしれないけど)、もっと根本の、このような批評を必要としなくなってしまったということなのだろうと思う。必要だと思えなくなってしまった、と言った方が正確かもしれない。少なくとも僕には。そのことを考えると、僕自身のわずか8年程度の短い映画体験の間にさえ流れていた映画の渇きを感じずにはおれなかった。そして映画という100年ほどの歴史をもつ大河は現在進行形で渇き続けている。
この批評が載ったのは98年に『中国女』がリバイバル上映された際のパンフレットとのこと。
15年前、映画の河は間違いなく今よりも深かった。そう確信させるには十分な批評だったが、しかしそれはどれほどの幅を持ったものだったのだろう。作品に深く潜る批評は、より強く作品を見つめることを読者に対して説得する。作品の深淵へと連れてゆく。そのような体験は映画にとっても観客にとってもすばらしいものだ。深さを求める切り口の幅は読者を限定する幅でもある。今このような批評が見当たらないのも、このような幅の言葉を必要としていないからなのだと思う。言葉はウェブの海を広く浅く泳ぐ。
自分たちで主催しているシネクラブFABRIC!、前回は廣瀬さん海老根さんをお招きして『ムーンライズ・キングダム』の話をした。
ある作家がツイッターでこの映画を「映画史上最高傑作」と言っていたのだが、この映画はほんとうに最高傑作と言えるようなものなのか?
確かにこれまでのウェス・アンダーソンの作品の、とくに前作から引き継がれるモチーフが山積され、彼が作り出すおとぎ話的世界観はより精度を増して加速しているように見える。
この物語は外を見ようとする女と男の逃避行だ。少年はボーイスカウトから、少女は家族から離れる。彼ら二人が外に出ることで見ようとしていたものはなんだったのだろう。あのムーンライズ・キングダムと名付けられ、台風によって消滅する小さな入り江を見たかったのか?あるいは駆け落ちして二人の将来を見たかった?どちらも否定はできないが、少なくともあの少女が双眼鏡を使って見ようとしていたものはそのどちらでもなかったのではないか。あの鋭い眼差しの奥に見ようとしていたものは、そんな手近なものではなく、もっと遠く、それこそ死へ近づかねば辿り着けないような彼方を見ていたのではなかったか。
あの彼女の鋭い視線は、ウェス・アンダーソン自信の作家としての問題を自己批判する視線だと言えないか。いつまでもおとぎ話を組み立て同じことを続ける作家への批判が、映画表現のマンネリ化したガラパゴスとなったあの島を抜け出すことを要請していたのではないか。
だから彼女だけがこのおとぎ話の映画に奇妙に生々しい瞬間を持ち込む。繰り返されるキスシーンも、ウェス・アンダーソンの映画にしては刺激が強すぎると思えるピアスの貫通と出血も、入り江を望む小高い崖で話す二人の肩越しの切り返しも、かつてのウェス・アンダーソン映画には見られなかったように記憶する。この映画は少女の住む家の絵を映すところから始まるが、その家は海側から、存在しないはずの者の視線によって描かれていた。彼女が双眼鏡で見つめるのはその海の向こうの安住の地から家を描くウェス・アンダーソンであって、その彼を外へ、遠くへ、あのこ汚いムーンライズ・キングダムなどと名付けられる入り江などではなくムーンそのものへ連れ出そうとしていた。そしてこの島の外へ行くには、あの教会の屋上から飛び降りる必要があると彼女は言うのだが、ムーンへ行くことを恐れたのか、ウェス・アンダーソンは飛び込まなかった・・・。
「死ねよ!」と廣瀬さんは苛立ちを含めて語っていた。この自己批判の眼差しをどこまで自覚しているかはわからないが、自らが大きく跳躍する契機を手にしていながら、足を踏み外すのを恐れたのか飛び込まないなんて、この映画は「魔法」という言葉を何度も取り出し魔法めいたものを扱うときもあったが、やはりこの映画には魔法がないということの見事な証明でしかないだろう。『フランケンウィニー』で二度目の命を吹き込んだ雷は、ここではどうなっていたか。一度目は少年に落ち、二度目は教会に落ち、何がおこったか?何も起こらないのだ。雷が落ちたことによって追っ手から逃れるということもなく、また雷によって二人が救出されるということでもない。僕らはこの映画から魔法めいたものを見つけ、それに心踊るのだが、それすらも魔法などではなくウェス・アンダーソンの技術だということに気づく。
あそこで飛び込んでいれば、少なくとも技術では追いつけない何かに遭遇していたのではなかろうか。
屋根から飛び込む先を海だと信じる彼女は確かあそこで「深いところに飛び込めば大丈夫」だと言ってなかったか。
その彼女の言う深さとは、海の深さであり、作品の深さである。その作品の深さをみつめる力を批評と言うなら、彼女は確かにこの作品に深さを見つけていたのだろう。
蛇足だが、このシネクラブの間、話を聞きながら考えていたのは『ライク・サムワン・イン・ラブ』だった。
今年は邦画が不作だからかキネマ旬報や映画芸術ベストにまでタイトルが挙げられていたが、作品自体を良いとも思わないが、そもそもこれは邦画なのか。それは監督が日本人ではないからだというだけの理由で言っているのではなく、あんな日本の風景はどこにあるのだ。あんな日本人がどこにいるのだ。ここに映されていたものを日本だと内側から認めてしまっていいのか。世界的な優れた作家に日本で映画を撮ってもらって喜んでいるだけなのではないか?
ウェス・アンダーソンがおとぎ話的空間を用意するように、キアロスタミは映画にフレームを用意する。
そのフレームが加瀬亮を発狂させていたが、僕たちの知る日本にはそんなフレームがないからこそ苛立ち続けるしかない深い苦しみを生きているのではないか。
そういうことをかつて下のリンク先に書いた。
この苛立ちが遠い他者どころか身近な仲間にさえ共有されないという苛立ちが、何をしても何もならないということを考えさせるのだが、無論それだけではない。続きはまた近いうちに。
http://doom-insight.net/monthly/201210.php

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