『サイド・バイ・サイド』


あけました。
2013年、早いものでDOOM!は活動五年目に入ったわけですが、今年は私たちにとって大きな節目の年になりそうです。
映画が100年ほどの歴史のうちにフィルムからデジタルに変わるという、にわかには信じられないようなことが起こってしまうこの時代に、それと同じくらいに信じられないようなことが起こせたら世の中変わっていくんじゃないかと、そんなことを夢見る正月を過ごしておりました。


その映画のフィルム・デジタル化問題についてキアヌ・リーブスが製作した『サイド・バイ・サイド』を観てきました。

映画には産業と芸術としての側面があり、ましてや作り手や配給、劇場それぞれにさまざまな立場があるという複雑な状況の中で、こうしてドキュメンタリーが作られることによって一定の共通認識が出来るという点ではとても価値ある作品だと思う。
マーティン・スコセッシやデヴィッド・リンチといった監督から、撮影監督、役者、カメラの開発者から現像所のスタッフまで、作品を完成させるまでの行程に関わる人たちの声が丁寧に集められているが、配給、劇場、映写技師、あるいは観客の言葉はおさめられてはいない。
それは当然と言えば当然なのかもしれない。映画は作り手によって作られる。だから彼らにとっての問題は制作過程でのフィルムがデジタル化しているということが大きい。
この映画を観ることで理解出来るのは、映画のポスプロがデジタル化され、ダヴィンチのようなソフトによって空の青い色や森の木の緑など、とても細かいカラコレが出来るようになった状況では、上映用のプリントを焼くということは、その直前に用意したデータをロスするだけの不効率なプロセスでしかないということだ。言ってしまえば、この時点で上映のデジタル化は必然なのだ。
タイトルの「サイド・バイ・サイド」とは、現像したプリントとデジタルのデータ両方を同時にスクリーンに映し見比べる作業のことを言う。作り手の意図するデジタルの映像にプリントを似せようとするこの行程は、プリントの存在を上映するための効率的な道具としてしか見ていないと言えなくもない。再生メディアとして、また映像表現としての上映プリントの価値についてはこの映画では触れられない。
僕は上映する側の人間なので、映画を見ながらどうしてもその視点からフィルムやプリントについて考えていた。だから上映素材としてのプリントの価値に触れられないのは残念でもあったが、ポスプロのデジタル化について細かく知ってしまうと、確かに作り手がプリントでの上映を不完全なものだと思うのもよくわかった。作り手にとって上映のデジタル化は、意図するものに限りなく近いものをスクリーンに映すための優れた手段なのだ。フィルムでは現像時のデータのロスがあるし、プリントごとにムラがあるし、劇場ごとにも差が出てしまう。デジタルでも劇場ごとの差は出るが、上映素材までは作り手の意図するものに出来る。
この映画は、フィルムで撮られていた映画がデジタルで撮られるようになったということ、そしてどちらも良い点悪い点があるということは語るが、それだけのことであれば使い手が好きな方を使えば良いというだけの話でしかない。
語られるべき問題は撮影のプロセスがデジタル化し、ほとんどフィルムが使われなくなると、フィルムは産業として成立しないということだ。つまりそうなってはフィルム撮影は選択することさえ出来なくなる。おそらくこのままでは近い将来にフィルムという記録メディアはなくなるだろう。同じことが上映用プリントについても言える。現状ではこちらの方が先に消えるように思われる。古い作品のネガが残っていても、新たにプリントを焼くことができなくなりそうな状況である。(ネガをテレシネしてデジタル化すれば見ることは出来るが、その費用は数百万と聴いたことがある。ニュープリントならざっくり50万前後ではないか。)
完成した映画の保存について、デジタルでは一年後にはハードディスクからデータを読めないとかなんとか言っていた(ほんとかいな?)
実際、デジタル上映素材の保存については未だに良い答えがみつかっていないし、今後フォーマットが更新されることは必ずあるだろう。デジタルとは永遠のβ版なのだから。ジョージ・ルーカスは超楽観視して「再生方法がなくなっても、それが解決すべき問題ならなんとかなるものさ」なんてことを言っていたけれど、映画は産業でもあるのだから、その断言は怪しいものだ。
フィルムが担って来た文化もあれば、これからデジタルが担う文化もある。
映画でも言っていたが、これらはあくまでも手段なのだから、その手段は作り手にとっても観客にとっても多い方が良いに決まっている。
それと同時に、産業として時代を呼吸することを映画は求める。
文化と産業を並べて見比べるという意味での「サイド・バイ・サイド」が必要だとは言えないか。いや、映画はいつだってそれを求めて来たはずだ。
並べて見比べることに差異は発見される。その差異は新たな問いを生む。その問いが新たな比較を発見する。その繰り返し。
疲れることかもしれないが、映画は芸術と産業の両輪によって進むのだから、どちらも欠落させてはならない。