『魔法少女まどか☆マギカ』の前編を観た。


『魔法少女まどか☆マギカ』の前編を観た。


アニメは作り手の意思によって書かれた記号である。
そこに映されるキャラクターがどれだけ動き回り特徴的な声を持ってデフォルメされた顔と身体で人を魅了しようとも、それが書かれたものであるという事実からは抜け出すことが出来ず、そこに映るものが私たちに近づけば近づくほど断絶を大きくするばかりである。
それらは一枚一枚が分断された状態で書かれた連続した絵であるが、作り手の意図とその絵の意思によって繋げられたとき、そこに命は宿り得る。かもしれない。
無論、それでもスクリーンに映されるアニメに命は存在しないということも可能である。だからこそそこにキャラクターを生かしたいと思い、『けいおん!』のような物語の役に立たない風景と人物のディテールが必要以上に書き込まれたアニメも作られるのだろう。そこでは私たちのために記号が映されるのではなく、どこかに予め存在した時間がたまたま私たちの目の前を通り過ぎただけだとでも言うような、私たちが日頃から過ごしている瞬間と変わりない時間が流れていく。
ここでは『けいおん!』や『まどマギ』のアニメに命が宿っているということを言いたいわけではない。ただ、そこに命のようなものを感じてしまう瞬間が確かにある。それはアニメだけの話ではなく、カメラによって記録された映画であっても同じだろう。彼らは毎回同じように再生される光の粒子であるが、私たちの生と同じように尊い何かをその光から感じる瞬間がある。
これらは難しい話でもなんでもない。アニメとして映される彼女たちが自らの今後の人生について回想するとき、私たちは彼女たちには「書かれた限りの生」しかないことを知っている。それを観ている私たちには書かれた限りの生しかない、ということはおそらくない。だからスクリーンに映る彼女らが呟く「もっとこうだったらいいのだけど」という可能性の一語は常に虚しい残響を持って響く。
命という言葉を芸術と言い換えてもいい。作り手が書いた、撮った、鳴らした芸術がある。それらは作り手の意図を離れ、そこに映る映像(つまり光の粒子であり記号であるもの)やそこに響く音(空気の振動、気圧の変化)とは無関係に、私たちは勝手にそこに何かを感じる。それはその記号がただの記号であることを許さないほどに私たちの感情を揺さぶる。
だから、記号が記号であることを暴露するようなことがあっては困るのだ。
これらがただの粒子であり振動であることを知っていながら、それでも思わず心が震えている私にとっては、むしろそれが純粋な記号ではないと思えた方が都合がいい。しかし『まどマギ』はそれでも「あなたが観ているものはただの記号だ」ということを唱える。
前編では、書かれたまま、魂を込められたまま、それでもスクリーンやイヤホンの中から解放されない彼女らの声なき声の残響を聴き続ける。
それは魔女として映されるコラージュのようなものなのかもしれない。言葉を発さない魔女の声を聴き続けていた、そんな時間だった。