『Ghost of OT301』 住野貴秋


「呼び水、実体の変容の絶対性について」

 

私達は光ではなく、映像である。だから、見ることは想い起こすことに似ているのだ。

 

ハンス・ベルメールの写真はしばしばフロイトが1919年の論文で描写した、感情のなかに潜む「不気味なもの」との連関の中で語られてきた。

 

「わたしはもう長いあいだ、不気味な印象を与えるものを経験したことも不気味さを感じたこともない。そのためあらためてこの感情の中に入り込んで、こうした感情がそもそも可能であることを思いださなければならないのである。」

 

こんな宣言から始められ、「不気味なもの(ウンハイムリッヒ)」というドイツ語が示す感情の領域とその運動を特色する二重化、反復、分身といった操作を眼球喪失と去勢不安、肉体が消滅することへの防衛、幼児性と原初的なものとの連続性といった観点から考察するこの論文はベルメールの写真が作り出す映像と鋭く交錯する。

 

「幻想と現実的なものの境界が消滅するときであり、それまで幻想にすぎないと考えたものが、わたしたちの前に現実として姿を現すときであり、そして何かのシンボルであったものが、その象徴していたはずのものの機能と意味を完全にみずからのものとするとき」、あるいは「多くの近代語ではドイツ語で「不気味な家」(ウンハイムリッヒェス・ハウス)という語を「幽霊の出る家」と言い換えるしかない」、このような記述は『Ghost of OT301』の出現を正確に「予感」しているようにも思えるのだが、フロイト自身が宣言したようにこの映画から私は不気味な印象を与えられない。

 

ベルメールの映像《人形》は自作した等身大の少女人形を様々な姿態で写真に収めた連作だが、球体状の関節が繋ぐ丸みを帯びた四肢や腹部、下腹部、胸部、頭部は分裂増殖的に繋ぎ直され―腹部を共有する膝から下を欠いた下半身、対称形の弧を描くように繋ぎ合わされた二対の脚、洗面台のシンクに載せられた半身を欠いた胸部には分子結合の模式図のように四つの乳房とその中にあってまるで異物のような頭部が繋がれこちらを正視し―ている。「不気味なもの」を巡る幼児性や分身といった主題を象徴的に体現する少女人形という物体がさらに断片化され、鏡像化され、二重化され、写真複製技術を通して増殖する、その一連の過程のほぼ全てに、フロイトが論文を通して定義を試みた主題が見てとれる。《人形》は「不気味なもの」が結晶化した様を開示しているかのようでさえある。

 

映画の映像は大量の写真を映写機から規則的に断続させつつスクリーンへと投影することで作られるから、写真の映像に比べ、膨大な量の複製を孕む。そこで投影される写真は一枚一枚が微妙な差異を含み、これが映像の運動感覚を作り出すので、意識の上では像が増殖しているようには受け止められない。そうだとしても、これは映像の運動感覚の下に差異を含みつつも分裂増殖的に継起する像があるという事実を否定するものではないし、むしろそれらは一つの現象の表裏であると言えるだろう。言い換えれば、写真機は具体的な撮影対象―それは移動撮影のように、複数の像からなる空間であることもある―を母型として差異化された大量の写真複製と母型が動いているという感覚を同時に作り出し、スクリーンに投影された映像を見つめる眼差がそれらを二重化する。フロイトが『不気味なもの』を発表した年にはすでに、彼がその論文の中で「不気味な」印象を生み出すと位置づけたいくつかの操作に基づいた映像の様式が欧米諸国を中心に普及し、大衆に広く受け入れられていたし、現在それがどのような状況にあるかを指摘する必要はないだろう。私たちはすでに「不気味な家」あるいは「幽霊のいる家」に住んでいるためにそれに相応しい感情を麻痺させたのだろうか?それとも《人形》にあって、『Ghost of OT301』に欠けているものにこそ「不気味なもの」の本質が潜んでいるのだろうか。

 

牧野はベルメールが分裂増殖する少女人形を写したように、彼の作品の映像を作り上げた、というのも彼の映像の多くに現れる分裂増殖的な水や植物の像には無秩序で混沌とした形、色彩、運動が生起するが、それらは同時に幾何学的で規則的な循環にも映る。そこから受ける印象は有機的で生命力に満ちたものと、人工的で無機質なものを併せ持っている。そのような両義性は必ずしも「不気味な感覚」と矛盾するものではないだろうし、実際そうかけ離れたものとも思われない。『Ghost of OT301』にそれとわかるような形で現れていたわけではないが、植物は差異を含んだ分裂増殖という観点から見れば、突出して、映画の形式を直接的に現す像として機能しうる。云わば、植物の像は映像を写真の樹木、あるいは写真の森として像そのものと二重化するが、この時映像は無限に拡張していく分裂増殖の断片と化し、映画が少なくとも二つの規則を抱えていることを語り始めている。

 

一つは運動の中心に機械があること。片側には受光する機械、写真機があり、片側には発光する機械、映写機がある。二つの機械を統合するのは複製である。ここには、記録−保存−複製−再生という一連の流れがあり、それはやがて目へと至る。この全てに運動を調節する機能が備わっているが、決定的な役割を果たすのは、機械であるということを否定するものではない。映像は至る所にある。しかし、映画は機械を否定することはできないし、機械のない所に映画は始まらない。

 

もう一つはその映像には実際には複製の母型となるようなものは見当たらない、ということ。映像に生じる運動感覚は、映写機の投影規則に大きく依存している。この時、映像の運動の不可逆性は経験的な時間の不可逆性をなぞったものに過ぎない。そこから映画の始まりと終わりが設定されるが、それはあくまで説話的なものであり、物語の一つの形式のみを現している。この語りの形式を拒絶することで失われるものはあり、それは再現することだろう。植物の像が暗示する映像の分裂増殖的な一面は映写機が演じる再現的投影規則を無視したものであり、映像と運動の二重化を切断する。このとき映画の中で像の主体、運動の源泉として架空の母型が設定されていたことが明らかになる。架空の母型は写真機の撮影規則と映写機の投影規則を同調させる(二重化する)ことで、再現的な運動感覚を映像に与えていたけれど、映像と運動が異なる規則に分離されてしまった時、そこに過去の映像が回帰する時空は存在しない。そこにあるのは分裂増殖した像の群れと映写機の無限反復的な投影規則の運動である。植物の像は映画の規則に侵入することで、一端は「不気味なもの」を喚起するかのように見えるが、終いにはそれをばらばらにしてしまう。

 

では、もう一方の水、だが分裂増殖する水の像とは何か?水を分けること、水を殖すこと、水を映すことは可能か?水を映す、ここには同語反復的な響き、「不気味な」響きがある。むしろこう考えるべきではないか、水は何を語っているか?

 

フロイトは『不気味なもの』の中でE.T.A.ホフマンの『砂男』を引用し、分析したが、ベルメールはオッフェンバックの歌劇『ホフマン物語』を見て《人形》を構想したと言われている。『ホフマン物語』はホフマンの小説『砂男』、『クレスペル顧問官』、『大晦日の夜の冒険』の3篇を原作に、再構成された歌劇である。

 

「彼はゆっくり立ち上がると、白いゆったりしたガウンで身をつつみ、しずかに、まるで幽霊のように鏡に近づいて、そのまえに立った。なんと!鏡には明るくはっきりと二本の蠟燭、部屋の丁度、ぼく自身の姿が映っていたが、小男の鏡像はどこにもない。ひとすじの光も、ぐっと近づけた彼の顔を反射していなかった。彼は振りむくと、深い絶望を顔ににじませて、ぼくの両手を握りしめた。」

 

『大晦日の夜の冒険』はある男が大晦日の夜にベルリンで「鏡像を失った男」と出会ったことを回想する怪奇幻想小説である。もっとも冒頭に「編者のまえがき」末尾には「旅する熱狂家のあとがき」が添えられているので、回想している人物の小説内での位置付けは曖昧で謎めいたものになる。その人物の輪郭は二本の蠟燭に照らし出されたかのように揺らいでいる。

 

蠟燭が「鏡像を失った男」を照らしている、この部屋は映画の上映風景によく似た所がある。だが、スクリーンは鏡ではないし、私たちの鏡像も部屋の丁度もそこには映らない。映写機のランプがレンズを通して銀幕に投影するのは、なにかもっと私たちとは別の、鏡像だ。

 

「すると小柄な痩せこけた男が、ぶきっちょな速さ、鈍重な敏捷さとでも言いたいような身のこなしで、とびこんできた。じつに珍奇な茶色っぽい色のマントを着ていて、男が部屋のなかを跳ねまわるにつれ、マントは大小の壁をなして身体のまわりで奇妙にはためき、それを蠟燭の光で見ていると、まるでエンスレンの幻燈照明による投影のように、たくさんの姿が入り乱れてうごいているかのようだった。」

 

「大晦日の夜にはいつも盛大な宴会がある」そこで再会したかつての恋人に袖にされ、近くの地下酒場で自棄酒を飲んでいた男は「鏡像を失った男」との最初の邂逅に際してこのような印象を抱く。「スヴォロフ将軍」と綽名されたこの痩せこけた小柄な男は病的に鏡を恐れており、酒場に居合わせた顔なじみの客と「鏡像」と「影」を巡って口論となり、早々に店を飛び出してしまうが、男が小男には「鏡像がない」と気付くのは、もう少しあと、夜を明かすために泊まった宿屋で偶然再会を果たした時のことである。

 

幻燈は17世紀にドイツのアクナシウス・キルヒャーが発明した、蠟燭光でガラス乾板に描かれた画像を拡大投影する光学装置である。炎の揺らぎが画像に与える変化と明滅が、時に像を揺るがし、時に分裂させる。『大晦日の夜の冒険』が書かれた19世紀初頭のドイツでは、幻燈は、装置の使い手の名が記憶され喧伝されるうる作品と受け止められ、親しまれていたのだろうか?しかも蠟燭の光の中で見る、という身振りと装置の一致が、人為的な映像といままさに目の前で起きている光景の違いを問うことなく、記憶を現実に回帰させるというような事態が、ごくあたりまえのことではないにせよ、幻想怪奇的な物語の必然として起こりうるという認知を抱いた作家を生むような形で。

 

この小説が発表された時代のイギリスやフランスでは、近代的な光学装置と舞台照明の技術とが結びつき、個人の生活空間を凌駕する巨視的な、あるいは幻想的な映像を扱った見せ物が勃興し、急速に波及しつつあった。このような潮流の中でダゲールは視覚に特化した装置を駆使して、密室の中に多彩で超現実的な映像が複雑に交錯する時空を創出する「ジオラマ」や超精密な光学映像を複製する写真術を生み出し、世紀末にはリュミエール兄弟が大量の写真を規則的に投影することで、映像を通じて現実を視覚的に再現する様式「シネマトグラフ」を確立する。

 

「・・・鏡像はぼくがどこに行こうと、いつもいっしょだ。そしてどこのきれいな水面からだろうと、磨かれた金属面からだろうと、ぼくに向かいあって姿を見せるんだ」
「こんなものすら、鏡からのぞくあなたの幻の像すら、わたしにはくださらないの?あなたの肉体も生命もわたしのものだと、いつもおっしゃていたくせに。あなたがいなくなれば、愉しみも愛もない侘しい生活をおくることになるでしょうに、せめてあなたの儚い像だけでも手もとにおかせてはいただけませんの?」

 

カメラの、シャッターを切れば・・・レンズに写った全ての鏡像が手に入る。もう一度シャッターを切る・・・やはり鏡像が手に入る。私たちは「鏡像を失った男」ではないし、鏡像は「きれいな水面からだろうと、磨かれた金属面からだろうと、ぼくに向かいあって姿を見せる」だろう。だが、変化はある。私たちは「鏡像を失った男」ではないが、にも拘らず「鏡像はぼくがどこに行こうと、いつもいっしょ」ではない、とカメラは語る。カメラは鏡像を消しはしない。カメラが消すのは鏡像でも実体でもなく、鏡像と向かいあう実体、実体と向かいあう鏡像、実体=鏡像を実現する鏡なのだ。この鏡の失踪が作り出すのは「鏡像を失った男」ではなく、「実体のない男の鏡像」だがそれはそのまま「実体のない男の像」へと連続している。鏡は眼差を実体と鏡像へと分断する、言い換えれば、鏡を前にした知覚には実体と鏡像が、視覚の分裂とともに生み出される。これに対し、カメラは実体から実体のない像を作り出す。この実体のない、あるいは実体を失った状態、仮にこれを反実体とするが、この視点から見る時、写真、は反実体的な映像であり、映画とは反実体的な映像の機械的な無限反復の場である。フロイトが『不気味なもの』で唱えた説を受け入れるなら、写真、そして映画という形式そのものが「不気味なもの」なのだ。

 

そして私たちがカメラのシャッターを切るとき、あるいは写真を、映画を見つめるとき、私たちの眼差はまぎれもなく、娼婦ジュリエッタのそれである。それが「愉しみも愛もない侘しい生活」に供えるためのものか、鏡像を質に実体までをも手中に入れようとしているのか、もっと他の理由があるのかは明かされないにしても。

 

だが水は、この状況に対して異議を申し立てる。鏡も、「よく磨かれた金属」もまた。反復、分裂、増殖、複製、機械の運動、知覚、そのいずれにも逆らうことなく。水は言う、「反復も分裂も増殖も複製も機械の運動も知覚もある。だが私たちはそのいずれとも違う。そう、まさに違う、私は差異そのものを映し出す。鏡像とは差異である。」

 

鏡像は反復に対する差異、分裂に対する反転、増殖に対する弧立、複製に対する創造、機械の運動に対する故障、知覚に対する拡張を作り出す。私たちはそこに実体を反復を分裂を増殖を複製を機械の運動を知覚を見ようとする。確かに鏡像は実体のないものを映さない(だろう)、だが実体を映しはしないのだ。だから映画は常に実体があったものの映像であり、実体でないものの映像である。つまり実体の変容の絶対性こそが、映画の話法なのだ。

 

写真、そして映画という形式が「不気味なもの」であるとすれば、そこでは常に「不気味なもの」からの逸脱こそが語られている。

 

植物は分裂増殖的でありながら、同時に差異を生み出す、原映画的な像であり、映画の映像とだけでなく、話法における合わせ鏡として出現する。それが映像の分裂増殖的な群れと再現的な時空を分離するように促すことはすでに述べた通りである。鏡像が語るのは、それが単独の像として分裂増殖的な映像の群れについてと同時にそれらの差異についても語っていたということだ。そこから聞こえてくるのは、一葉の声が樹木のささやきとなり、森のざわめきへと広がっていく、映像固有の運動が戯れ合う響きである。植物は視覚的に「騒がしい」。映写機の規則的な運動はこれと結びついて、差異を規則的な運動に置き換えるよりも、「騒がしさ」に拍車をかけるのだ。

 

牧野の分裂増殖的な映像手法は多かれ少なかれ、どのような像を扱っていてもこうした要素を含んでいる。分裂増殖する像は実体を離れ、スクリーンを光の明暗の強弱と色の閾に分割する。継起する像は先行する閾の差異であると同時に新しい光の閾でもある。眼差がそこに連続性を作り出せば時間が生じるが、そうでなければ空間の変容として認識される。スクリーンは時空の茂みなのだ。

 

そして水は映画の変革のもっとも雄弁な語り手である。視覚的には水は水でないものしか映さないし、語ることしかしない。植物のように騒がしい時もあれば、密かな時もあり、また、けたたましい時もある。その移り気は明け透けな謎を開いている。喧噪、『Ghost of OT301』はそこで目を覚ます。暗い空間を滑るように沢山の白く細い線が絶え間なく行き交っている。時々流れ星のような粒子が尾を引きながら、浮かんでは消える。不定形な流体状の光が点いて、消えた。とても極端な時間が、ずっと続いている、そしてこれからもずっと続くような気がする。やがて胞子が舞うようになる。水が蠢いている。嬉々として、微笑む波紋は骨に見える。この水には潮の臭いがする。綺羅綺羅しいざわめきは快い、それが死者を悼む声だとしても。写生会の携帯バケツを独りでのぞき込んだ時のような区切られた澱みが一面に広がっていく。色水、そこには遠くを見やる女性の姿形が見える。穏やかな肌の紅みが徐々に点りだす、「気配に過ぎないが」という言葉を呑み込んだのがわかった。帽子をかむった人の影は諍いの前兆としてやってくる。様々な人でなしがいるので、それは避けられない。鸚鵡はまだ見たことがない。だけど人混みでも見分けられる自信がある。南国から遠く離れてもその血が流れている限りにおいて、不断に話し続ける。凍りついた珊瑚礁に浮かぶ島、その記憶はとめどなく溶け移り、薄れいく意識を追いかける者は集まってくる。最後まで。音楽が聞こえる場所はここなのだから。

 

引用
フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』中山元訳、光文社2011年「不気味なもの」131,175,179,185pより
ホフマン『砂男/クレスペル顧問官』大島かおり訳、光文社2014年「大晦日の夜の冒険」138,152,163,183pより

 

参照
牧野貴『牧野貴作品集Vol.1 With ジム・オルーク』紀伊国屋書店2010年
The Brothers Quay『The Brothers Quay DE KORTE FILMS 1979-2003』Moskwood Media,2006
イブ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス『アンフォルム 無形なものの辞典』加治屋健司/近藤學/高桑和巳約、月曜社2011
アラン・サヤグ編・著『ハンス・ベルメール写真集』佐藤悦子訳ブッキング2004年
Hal Foster, Rosalind Krauss, Yve-Alain Bois, Benjamin H.D.Buchloh, David Joselit『Art Since 1900』
FREE MAD「1924シュールレアリストの美学とは?」(https://vimeo.com/channels/285285/15216083)
伊藤俊治『ジオラマ論』リブロポート1986年
ジャック・アタリ『ノイズ 音楽/貨幣/雑音』みすず書房1995年新装版