2012後半戦、動き始めました


おばんです。おぼんです。
9月10月11月12月と、今後の予定がゆるゆると決まりはじめている。

牧野貴さんの作品と海外の作家の作品が今年の爆音映画祭で上映され、それは明確なコンセプトと簡単な仕掛けからこちらの視覚と思考を解きほぐす素晴らしい上映だった。
ここで上映された作品たちは[+]という企画として上映が続けられてきたもので、昨年秋には同志社大学での牧野さんの上映と合わせて京都でも上映されていた。その上映に足を運ぶことは出来なかったが、その前の冬にギャラリーで上映された時にはいくつかの作品を見ることが出来て、今年の爆音でも観ることができた『12 Explosion』やベン・ラッセルの作品などとはそこで出会っている。
これらの上映で観た映画は、どれも見るからにわかりやすく楽しく、観るがままのエンターテイメントになっていた。こう言ってよければ、観るという行為の「簡単さ」に忠実な映画というか。ただ眼が光をとらえるがままにまずは見る。ただそれだけのことなのに、観客はいつのまにかあれやこれやとごちゃごちゃ考えはじめ、見るだけの行為が難しくなっていく。
[+]で上映される作品を見ていると、いわゆる実験映画という作品は映画の中でそれほど一般的なものとして需要をされているわけではないけれど、それは決してそれぞれの作品が小難しいからということではなく、スクリーンに映されるものとそれを実際に観るまでの観客との距離があまりに離れてしまっているからだということがはっきりした。見れば誰にでも楽しめるもののはずなのに、少しずつそこが乖離していって、極北へと追いやられる。
牧野さんは[+]でその距離を縮めていこうとしているように思えた。
しかし集客することは難しいようであったし、それに上映出来る場所もギャラリーだったりカフェのスペースだったりと、地方で上映することの状況の厳しさも感じられた。
今年の爆音映画祭での上映は本当に素晴らしいもので、上映後に今年は関西では[+]はないのですかと牧野さんに訊いてみたのだが、今年はどうなるかわからないという様子だった。
たとえ短い作品であっても作品を上映するにはそれなりにお金がかかる。金儲けのためにやっているわけではないし、そもそも映画の上映で金儲けをすることなんて簡単ではないが、少なくとも赤字にならないだけの上映をしなければコストに見合っただけの上映が出来たとも言い難く、持続していくのが難しいのも当然である。困難は山ほどあるし、仕方がない。しかし仕方がないなんて言って納得なんて出来ないほど意義のある上映がされているのだから仕方がないなんて言ってたまるかとついつい牧野さんに「僕らと一緒に上映しませんか」と厚かましいことを言っていた。すると言ってみるもので秋に上映出来ることになり、いまは少しずつその準備を進めているところ。
僕らが関わったからといって人が集まるということではないのだが、とはいえどう考えても[+]がこれまでやってきた上映を今年はやらないなんてありえないし、やるからにはやれることをすべて積み重ねるつもりで、やらないよりはやった方がマシ、なんて消極的な言葉で終わらないものを作りたいと思う。
牧野さんや空族のように、作家でありながら同時に上映のために動いていく作り手に対して出来ることがある限りは彼らの作業を手伝いたいという思いがある。
デジタル化によってかつての映画の形がほころびを見せたことによって、彼らのような作り手が自ら進んで上映に関わるようになり、それによって僕らのような者にまで作品が届いていることは本当にうれしく思う反面、上映にまで責任を負ってしまうということに、作家にとってそれが必ずしもいいことばかりではないという思いもある。
作品が上映される限りはそれは出来る限り多くの人に見てもらいたいけれど、その宣伝などの動きにまで作家が責任を持ってしまうと、映画を見せていくための幅は狭くならざるを得ない。普通に考えて自分で自分の映画を「すばらしいですよ!」なんてなかなか言えるものではないし、他人が宣伝を担当するからこそ言える言葉もある。他人だから出来る動きがある。
とにかく多くの人に見られればいいのだ、なんて破廉恥なことは思わないけど、作家と作品にとっての大事なところを届けることと、多くの人に届けるということは反比例するものではないはずだから、そのための準備を丁寧に積み重ねていきたいと思う。
まずは牧野さんの上映が11月にあるけれど、他にもいくつか動きはじめたことがある。それについてはまた今度。