「海街diary」 是枝裕和


思いがけず一週目から『海街diary』を観た。

 

鎌倉の古い一軒家で暮らす幸(綾瀬はるか)佳乃(長澤まさみ)千佳(夏帆)の三姉妹のもとに山形で女と暮らしていた父親の訃報が届く。葬式に行くとそこには腹違いの妹すず(広瀬すず)がおり、その子と一緒に鎌倉での生活が始まることになる。
血は繋がっているとはいえ、突然一緒に暮らす事になったその妹と姉妹としての関係性を築くことができるかにこの映画はフォーカスするのかと思いきや、歳が離れていることもあってかそこでは姉妹の関係性というよりも親子のような関係が作られる。しかしその疑似親子関係というのも、三姉妹で暮らしていたときのように綾瀬はるか演じる幸が母親代わりとなって二人の妹を育てていたようなものだけでなく「亡き父親の視線」を感じさせる。この映画は姉妹の関係性を描いた映画というよりも、そこに居ない父や母との関係の再構築を描くと同時に、そこに居ないものの視線に気づかずして影響される残された者たちの映画として語られる。

 

「亡き父親の視線」は常に固定されることのないカメラに現れているということでもなく、父親=監督の視線ということでもなく、山形での葬式からの帰り道、すずに案内してもらった彼女と父が好きだという場所に着いたとき、三姉妹がその遠くの風景を見る視線に現れる。
彼女たちは父が好きだった場所を口々に鎌倉に似ているという。後に鎌倉の風景も見る事になるが、それを比べてみてもこちらとしては似ているかどうかはなんとも判断がつかず、そもそも彼女たちも言っていたように山形の風景に海はないのだが、それでも鎌倉に似ているからここからの風景を父親も好んでいたのだろうと、彼女たちの視線は目の前の山形の風景を通して鎌倉を見ることになる。
このとき彼女たちはこの風景を好意的に見ている様子なのだが、それは目の前の風景が率直に良いからという一次的な理由ではなく、「鎌倉に似ている」という二次的な理由によるものである。さらにこのことを分解すれば、「私(三姉妹)が」風景の良さを発見するのではなく、「父が」この風景を好きだったという言葉の通り、視線の主語を私から父へと移すことで鎌倉に似ているということを発見している。自分で見ることを放棄して、人の目に視線を預けている。

 

終盤、姉の幸は「すずがやさしいのだから、父はやさしい人だったのかもしれない」と言う。父を直接見ることで父のやさしさを発見するのではなく、すずがやさしいのだから、そのやさしさを育てた父はやさしいのだろうと、鎌倉を担保にして山形の風景を肯定したように、すずを担保にして父を肯定する。
ここで私は、彼女たちは見る事を放棄しているのだからすずのやさしさを見つける事などできないと言いたいのではない。彼女たちは見る事を放棄した延長線上から、見た事までも放棄している。そのことが、このシーンが作ろうとしている肯定感とは真逆の薄気味悪さを強く感じさせる。

 

死んだ人と向き合うとは、そして生きて行くとは、このように死者の目線を借りて現在を肯定していくことなのかもしれない。見る事もやめて、見た事も忘れて生きて行くしかない生もあるだろう。しかし少なくとも彼女たちが見た事を忘れないと行けないような時間を生きていたとは到底思えない。

 

私はこのようなことを総じて「ズルい」と言いたい。「この人たち、ズルいんです」と告発したい気分である。