予告編からうすうす感じていたけれど、やはりとてもアメリカンな映画になっていた。
というのも、今回のゴジラは水爆実験の影響で生まれたのではなく、水爆実験はゴジラをやっつけるために行われていたのだといういかにもアメリカンな図々しさが全編を貫いていた。
この恐るべき図々しさ、発想の転換が示すのは、アメリカは自分たちの行いは常に正しいと考えるということだ。水爆実験を行ったという負の歴史を直視することでゴジラが生まれてしまったなどという過去は作らず、水爆実験という実在する過去さえもまるで良い過去のように語り直す。ここからはっきりと見て取れるのは「アメリカは反省をしない」ということである。
反省には過去がつきまとう。ゴジラが出てくることが怖いのは、何もその大きさや凶暴さだけによるものではない。そこに原爆や大戦の過去がどうしても張り付いているからだ。ゴジラの雄叫びの中には過去に置いてけぼりになった幽霊の叫びが響くからこそ胸を撃つが、今回のゴジラの雄叫びは地球に古来からいる大きな生物の鳴き声でしかない。
日本版ゴジラが水爆実験の影響で生まれたということが語るのは、核兵器への反省などではない。ゴジラは核兵器を反省させるためにわざわざ出て来たりはしない。
ゴジラは人間の力はどこまでもいけると勘違いをしたことに対して「お前らええかげんにせえよ」と重い腰を上げる。いや、もちろんゴジラが何を考えて海底から出て来るのかは誰にもわからないが、『ゴジラ』は「妄信」への反省を促すのである。その反省は「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませんから。」の精神と通じる。
この「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませんから。」という言葉は広島の原爆慰霊碑に刻まれた言葉である。『GODZILLA ゴジラ』に出て来た渡辺謙演じる芹沢博士は父親を広島の原爆で亡くしたと言っていたが、この言葉を知らないとしか思えない恍けた顔を彼は全編にわたって繰り返していた。『ゴジラ』に出て来た同じ名前の芹沢博士は研究室から最後の海底に至るまで終止「すべての発明は悪い発明だ」とでも言いたげな苦々しい「過ちは繰り返しません顔」をしていたが、渡辺謙はムートーを封じ込めたいのか大きくしたいのかもよくわからず、さらに言えば自分の研究に対して自分自身がどうしたいのかさえわかっていない顔をしていた。
その終止よくわからない顔をしている渡辺謙はラスト、死んだと思われたゴジラが息を返し海に帰るとき恍惚とした表情を浮かべる。それは本編中唯一はっきりと確認できた彼の表情だった。渡辺謙は立ち上がったゴジラをまるで仏様でも拝むかのようにぱぁーっと明るい顔で眺める。そのとき彼は人智に負えない力「ゴジラ」を神として崇めてはいなかったかだろうか。改めて言うまでもないが、その表情の奥にあるものこそ、かつての芹沢博士、広島、そしてゴジラが睨んだものだ。
ゴジラを神として崇めること、それは原子力という人智の臨界点にある力を制御できると信じ込んだ「原発神話」と同じ「妄信」ではないか。
この映画で何より危ないのは怪獣たちではなく、反省しないアメリカでもなく、渡辺謙が演じた芹沢博士だ。