『ケイコ 目を澄ませて』


昨年末に『ケイコ 目を澄ませて』を観て、自分が10年寝ていた間に三宅監督はこういう映画を作れるようになったのかという感慨があった。
『ケイコ』の撮影時のタイトルだという「small, slow, but steady」のように、小さく、遅くとも確実な足取りを10年つづけた人の映画。
昔、たしか『ワイルドツアー』のデータのやりとりをしていたときに、三宅監督に対して「三宅さんは映画で奇跡を起こさない」というようなことを話したことがあるのだが、やはり奇跡を起こさない人だからこその「small, slow, but steady」な映画なのだと実感した。あのとき三宅監督は「奇跡起こしたいわ」と苦笑しながら返されていたけれど。

この映画の美点を2つ挙げておきたい。一つはスポーツ映画でありながら勝ち負けではないものを見せたこと。それは同時に障害者をそういう属性を持った人として、有り体に言えば健常者と変わらない姿で描いたことにも通じる。障害を持つ、持たないという簡単な棲み分けがあるわけではない。試合に勝ったからと言って万事快調なわけではない。世界はそんなに簡単なものではないという態度で映画が作られている。
もう一つは映画全編に渡って充実した時間を残したこと。『きみの鳥はうたえる』でのクラブシーンのような、作り手のその場その時間への敬意や愛があるからこそ撮れたシーンがカメラとマイクに記録され、それを100分弱の本編全編で達成されていたように思う。これを半ば雇われ仕事でやれてしまうというのは本当にすごいことだと心底思った。

この映画を観た直後は、それはもう完全にこの映画を称え「よし!最高!!100点!!」という気持ちだったわけだが、時間を置いてじわじわとこの映画が抱える問題も見えてきた。
三宅監督が同年代を描いたのと同じように、上の世代を描けていたのかどうか。ジャンル映画のような手さばきが必要だったのかどうか。障害者を障害者として描かない、たまたま耳が聴こえないという属性を持っている人として描いたことでも結局障害の搾取が発生してしまってはいないかということ。

ケイコの母のいかにもな過酷なスポーツをする母親の姿。正確なセリフは忘れたが、踏切での「もういいんじゃない」という言葉はこの映画が抱える世界の複雑さを複雑なまま映し出そうとする姿勢と大きなズレを感じてしまうほど簡単なセリフだった。母がケイコの試合を撮った写真の送りで十分に母親の抱える感情を見せていたはず。この母親の姿が最後まで同じように映されていることがよかったのかどうか。
もう一つこの映画の世界を簡単にしてしまったセリフ、これも正確な言い回しは思い出せないが、医者が会長に対して「水滴がぽたぽた落ちて少しずつ穴が空く」だったか、つまり「small, slow, but steady」で世界はできているのだということを言葉にしたということ。これは正直言って三宅監督は観客に対する信頼がないのではないかと思ってしまうほどに戸惑った。観客は三宅監督に信じてもらえないほどの希薄な存在なのか、と。

この映画は言ってみれば小さな水滴が落ちること、その水滴が集まっていく様子を余すことなくすくい上げようとし、この映画を撮る三宅クルー個人個人の小さな力の集まりによって撮影・録音に成功した映画だと思う。でありながらこのようなセリフを残してしまうのは、山から湧き出た水が集まって水の流れが出来、その水の流れを手作業で整えているところに、目的地までちょっと距離があるからと重機を持ってきて一部分ガッツリ工事してバイパスを作ってしまうようなものではないか。作り手の都合で自然を壊すわけではなく、木を伐採することもなく岩を迂回し自然を維持しながら小さく歩みを進めていたところ、いきなり周囲の自然を壊すごつい水路が現れるような。一応言っておくと、重機がいつだって悪いわけではないが、少なくともこの映画はそういう映画ではないだろう、という話。ジャンル映画の手さばきとはこのことを言っている。もちろん、会長の入院に泣いた男が便所から出てきてトイレットペーパーを渡すシーンも、あのシーン自体が物語を雄弁に駆動させるシーンではないものの、とても楽しいシーンではあるものの、この映画の取るべきスタイルだったのかはよくわからない。あまりに映画の色が違うし、でもこの映画は色が違うものを詰め込んだ映画ではなかったように思う。カオスかコスモスかで言えば明らかにコスモス。三宅監督の映画にこれまで多少でも見られたカオス、『やくたたず』の牛や『きみの鳥はうたえる』のクラブシーンの背後にいたぼーっとする男のような存在、『ワイルドツアー』の子どもたちという「ワイルド」、映画の役に立つかどうかが完成後も定かでないような存在はこの映画には見られない。それは三宅監督自身初めてのフィルム撮影であったことと無関係ではなく、もちろん役者への配慮もあり、カオスが発動しないよう注意しながら作られた映画としてショットの充実へと舵を取ったのだと思っている。ワイズマンの『ボクシングジム』を参照したと語られているが、ワイズマンの音には秩序だけでなくカオスがあった。『ケイコ』の冒頭のボクシングの音の積み重なりはもちろん、以降のジムのシーンの音もあまりに秩序だっている。

世界は複雑でありそれをそのまま見せる、ということはそのままカオスを映すことで見えてくるわけではない、というのがこの映画のスタイルだったのかもしれない。
聴覚障害を持つが聴覚障害を持たない人と同じように友達と食事をして会話を楽しむのはそもそも普通のことでありカオスでもコスモスでもない。同様に、障害がことさら強調されることも、障害がまるで世界に存在しないように映すこともどちらも真実ではない。

この映画は障害者を障害者として切り取り利用するようなことからは限りなく遠い視線で記録され編まれている。
とはいえ、聴覚障害を持っているという属性はなしにはならない。そのことを切り離して映画を観ることは不可能だ。その上で、やはり聴覚障害を持っている人にはその人特有の困難と苦しみがあるだろうと思う。そのことについて思いを馳せるも、この映画で語られるのは前半のコンビニとジムへ行く道中の罵声、警察からの職務質問くらいのもので、ケイコを「障害を持っていて大変そう」と観客に同情を誘うようなシーンにはせず、同時にコンビニ店員も罵声を浴びせる人も警官にもただの悪役にならない余地が与えられている。かろうじて最後の試合で足を踏まれたことを伝えられないシーンが描かれるが、時すでに遅しではなかったか。あの瞬間の彼女の苛立ちには観客もセコンドも並走しない。
障害を映画に利用するようないやらしい瞬間はたしかにない。だが、これはこれでただただ純粋に聴覚に障害があるという属性のみを映画の中に汲み取ったことにならないだろうか、という微かな不安のようなものがこの映画を観た自分の中に残ったのも事実としてある。

とはいえ搾取から逃れられないということ、これはこの作品だけでなく、どんな作品であろうと絶対的に逃れられないことなのだと思う。障害にも様々な形があり、障害を持たないとされる人にもなんらかの障害はあったりもするし、ボクシングをする人には高校生もいれば幼い子どももいただろうし、ボクシングをする女性もケイコ以外にもいたのだと思う。弟の恋人だってダブルだったり他の人だったりしたはず。一つ言えるのは、その幅を広くはできたんじゃないかということ。少なければ目立つ。目立つものに意味を見出す。なんで弟の恋人はそういう属性なの?となる。できることならそんなこと考えたくはない。観客としても搾取に加担したくはない。
世界の複雑さをそのままに撮れてしまうことと、「属性」というものがあまりに相性が悪いのか。もっと属性の要素の薄い『きみ鳥』のような題材の方が三宅監督にはいいということか。
いや、だからやはり三宅監督の映画にはカオスがもっとあっていいのだ。世界の簡単ではない様をここまで堂々と撮れる人なのだから。
いろんな映画の楽しさを知りそれを自分の映画に映し出せてしまう欲張りな三宅監督なら賑やかさで属性が打ち消されるアルトマンのような映画を、アルトマンとはまったく違うやり方で作れる人なんじゃないかと、今書きながら思いついた。