五月の日記をサボってしまった。(二月もしれっとサボっているが。)
今月アタマには子供が退院をしたのでほとんど育児をしていた。特に書くこともなかったというか毎日「育児の合間に仕事をした」あるいは「仕事の合間に育児をした」というように同じことを書き続けるだけだったような気がする。
子育ては大変ではあるけれど、自分よりも妻の方がはるかに大変なので自分はあまり大変だと言う気にはならないし、実際のところ自分は母乳が出ないのだから子供の世話をする割合は圧倒的に少なくなる。
こうした子育ての時間をいざ過ごしてみると、自分からイクメンを主張するようなヤツは男の育児のできなさについて無自覚すぎるんじゃないかと思えた。少なくとも離乳食前の段階では男にできることは誰にでもできることで、母乳を与えることは女性にしかできない。育児そのものをすることに必死になるよりも家事をして妻が育児をしやすくすることに専念した方がよっぽど効率的だし、イクメンになる前に主夫になった方が結果的に良い育児ができると思う。
そんなこんなであまり映画は見れていないが『パークス』は見た。終わることを拒絶するような映画だった。
バウスシアターの閉館をきっかけにして生まれたこの映画は、始まりの気配を纏おうと必死だったように思える。歌詞にも「終わらないストーリー」とか「はじまるストーリー」みたいな言葉が入ってた気がするが、瀬田さんの映画の真骨頂は「何事にも終わりが訪れる」ということのどうしようもなさがポップな映像の底にマイナーコードとして流れているところにあると思うのだけれど、終わりをなかったことにしてしまってはそのマイナーコードは封印するしかなかったのだろうか。何かをはじめるということは常に終わりがはじまるということでもあるのだから、はじまりの底に終わりが見えてきても不思議はないのだけれども。
この映画を作るときにバウスの閉館というものをどのように受け止めて映画作りが進んだのかが気になった。バウスが閉館したからこの映画が産まれたということが後ろめたさという足枷となって終わりをないことにしてしまったのではないか、というのは妄想でしかないが。今できることを進めよう、できるだけ前に転がそうという姿勢が、確かに終わったものを結果的に欺いてしまっているような気がした。
そういう自分は未だにバウスの閉館についてモヤモヤとした時間を過ごしている。映画のデジタル化についても同じく。どうあれ前に進むしかないんだ、と言って事を動かす必要性も自分にはないので、まだしばらくはモヤモヤしていようと思う。