2016年11月


11/30

5年か6年ほど続けて来た声優科への映画講義の授業を終わりにさせてもらった。

 

11/29

GMOクラウドの管理画面がクソすぎて触りながら何度もクソクソクソクソつぶやいていた。GMOってほんといいところ一つもないと思うんだけど、それでも宣伝をいっぱいやってるからか使ってる人多いみたい。自由度ないくせ素人でも扱いにくい管理画面ってなんなんだろ。作った人がとんでもないバカなのか、わざとわかりづらくしてるかのどっちかなんだろうな。本当にひどい。

 

11/28

『マイ・ベスト・フレンド』と『この世界の片隅に』と『メン・イン・キャット』の三本立て。この世界〜はとても良かった。リアルにしていこうとするアニメとはまったく別の方向性の作品。現実に似ていようとそうでなかろうと、描き込むことで見えてくるものがある。
『メン・イン・キャット』は動物を使った映画なのでフォローしておいた。なんか年々どんどん動物映画が減ってる気がする。CGでは描けない「ただ動物が動物として映っている瞬間」がとても贅沢な時間で面白い。これはアニメでは絶対に見ることができない。

 

11/27

岸野さんが大阪に来たので一緒に食事してお茶。江坂の喫茶店で隣に座ってた20代前半くらいの女性二人が、コーヒーやケーキを写真にとってさっそくインスタにアップしていて、こういうのってほんとにみんなやってるんだなと関心した。そのあと二人はほとんど話をせずスマホを見ていたが。

 

11/26

いっちゃんが習っているカンフーの発表会的なのを見に行った。いっちゃん、全然練習してないから演舞を覚えてなくて見ていて痛々しかった。舞台が狭かったらしく、その狭さを確認しながら、舞台に置いてあるライトやスピーカーを壊さないかときょろきょろと確認しながらやってるのもなんともいっちゃんらしかった。こんなに覚えてなかったり、自信もないのに、それでも発表会には参加するメンタルが自分にはまったく理解できない。それだけはすごいと思う。

 

11/25

最近ニュースでどこかで事故があったとか事件があったというときに、その事件と直接的に関係のない監視カメラの映像などがよく使われているけれど、そこまでして映像を見たいのだろうか。僕はどちらかというと積極的に見たくない。老人が車を暴走させて子どもをはねてしまった事件でも、その事故が起こる直前の、子どもたちが列をなして通学する映像と、直後に老人が運転している車がただ通り過ぎるだけの映像が映されてたりして、もちろんそこには生々しい事故の様子などは映りはしていないのだが、それでもその映像にはなんとも言えない生々しさがある。「このあと事件が起きました」という映像。作り手も視聴者も、こんな映像がないと事件の痛みを感じることができないのだろうか。本当にやめてほしい。

 

11/24

『ファンタスティック・ビースト』を観た。思ったよりも地味な映画だったし、主役のエディ・レッドメインの話というよりも隣に引っ付いてくる太ったおっちゃんのダン・フォグラーとアリソン・スドルの話になっていて悪くなかった。ただ、ラストでおっちゃんが雨の中に入るところでとてもくだらない映画だなと思った。人種や血筋みたいなものを描きやすい題材でありながら、魔法使いと人間は線引きされるべきだし、そのための制度はまったく破られるべきではないと考えているような世界。その世界観はともかくとしても、その世界に対して何をぶつけるのかという思想がかけらも無い。くだらない。
そのあとヴェンダースの『誰のせいでもない』を観た。面白くはないが、面白くないのも誰のせいでもないと言いたくなる内容の映画。
事故に遭遇して、その悲しみの中で何年もの時間を過ごして、そこから少しずつ再生して、しかしその事故の影響は当事者以外にも拡がっていて、その影響で少しずつ人生が変わっていて、というようなお話。
最近よく思うのだけど、こういったなんとも言いがたい「人生ってそうだよね」というようなものって映画にするのは、何を映すかというよりもいかに映らない時間を映すことができるかなんじゃないか。小津やエドワード・ヤンの映画が優れているのはそこなんじゃないかと思う。
あとこの映画、悪い邦題ではないけれど、これをタイトルとして言葉にしてしまったらダメなんじゃないかな。

 

11/23

先日実家に帰った時、父親がそれなりの年齢なので車の運転に気をつけてという話になり、どうやら後付けで自動ブレーキ的な機能を入れれるらしいので、遅くとも年内にはやっといたらという話をして帰ったのだけれど、今日になって「後からは入れられなかったから気をつけて運転します」と電話が来た。ほなそもそもその後付け出来るという話はなんやったんやって話やし、そのことを説得したあの時間もなんやったんや。

 

11/22

ベンジャミンがぐんぐん枯れている!!!

 

11/21

東宝の無料月間をスタートさせた。ぼちぼち終わりそうなブリジット・ジョーンズの新作(原題は「Bridget Jones’s Baby」)はとても良かった。イギリスのコメディは苦手なのだけど、レネー・ゼルウィガーが良いから面白く見れた。ラスト、彼女がかぶる帽子(ではないけど)が風で飛ばされたときの驚くでも捕まえようとするでもなく大きく笑う姿がすべてに勝っていた。
『ガール・オン・ザ・トレイン』もなかなか。東宝東和二本立て。しかも内容も似ているところがちらほら。車窓から見える様々な人たちのミクロな人生とマクロな人生が混乱した主人公が、自らもそのミクロでマクロな人生のどちらもを同時に取り戻す話。エミリー・ブラントは相変わらず良い。顎が割れてるのね。ミクロとマクロに割れた顎。

 

11/20

雨が降らなければオリヴェイラに行けたのだが。。。

 

11/19

実家三日目。昼に出ておしゃれパン屋へ。店の雰囲気がとてもいい。入り口などは簡単なアルミの引き戸なのだけど、そんな安っぽさを微塵も感じさせないすばらしい雰囲気の店。パンも安くておいしかった。その後つたふじでラーメン。文句無しにうまい。このラーメンが基準だから、大阪ではどんなラーメン食べても満足できない。麺哲はかなりうまいけど、つたふじは550円だからなぁ。地方だから出せる味と値段。

 

11/18

島根へ。道中にあるそば屋でいつも昼飯を食うのだけど、そばが出てくるまでに30分近くかかった。食べるのは一瞬だった。店のおばちゃんの声は相変わらずガラガラだった。食ってみるとやはりうまかった。何がどううまいとはうまく言えないけれども、食ってみるとうまい。

 

11/17

朝から福山へ。鞆の浦に行ってぶらぶらしたが特に何もなく。鞆の津ミュージアムで「Re:解体新書」を見た。サエボーグの作品を見てみたかったから行ったのだけど、ちょっとこれだけで善し悪し言うのも酷な気がした。まぁ良くなかったということなのだけど。よく知らない狂気を孕んだ人たちの作品という名のがらくたはなかなか面白かったが、とはいえそれは一瞬の娯楽によく似たもののように思った。
そのあと尾道に行っておしゃれ倉庫のU2に行った。東京物語でロケ地になってた浄土寺にも行った。もう60年以上前だからさすがにいろいろと変わっていて新しくいろんなものが出来ていたのだけど、風景から推理してここで撮ったんだなということはなんとかわかった。

 

11/16

仕事。

 

11/15

仕事。

 

11/14

プロのカメラマンに写真を撮ってもらった。仕上がりが楽しみ。
夜に『溺れるナイフ』を観た。人がよく動いているのは悪くないとは思ったが、それ以外はどれもきつかった。海や水が大事な映画のわりに海が汚い。この撮影監督ならもっと良い仕事できたんじゃないかと思えるが。この監督の作品はぴあでやってた『Her Res』しか見たことがない。「才能」という言葉でこの監督を語る言葉が多く見られるが、「才能」というのは映画や芸術の枠がその人が居ることによって拡がるようなもののことを言うのではないか。そういう意味では枠が拡がるというよりも、枠の広さがよく見通せるような作品だった。

 

11/13

仕事。

 

11/12

家族での食事会。いつもよく行ってる梅田のかつくらの上にはハイソな空間が広がっておりました。
夜は『ソーセージ・パーティー』を。『テッド』みたいな映画を見て物足りなさを感じる自分みたいな人向けの映画。もっとやれよ!という声に煽られてもっとやってみた結果、ろくでもないものが仕上がっただけだという、とてもひどい映画だ!!!!!

 

11/11

ヒルナンデスでもやしの日だと言っていたからというわけではないけれど、最近豆もやしがおいしいなあとよく買っている。

 

11/10

京都へ。デザイナーの方と話すなどなど。御所の辺りに行ったので晩は吉田屋に行ってみた。うまいがつかれた。

 

11/9

バタバタとしている間に日記を書くのを完全に忘れていた。

 

11/8

同志社でマヌエル・クナップとのトークを。
あまり時間もなく、マヌエルの作品へのアプローチを広く駆け足に聞く時間になったので、トークとしてのまとまりにはかけるかもしれないが、マヌエル自身がとても言葉を持っている作家だったということもあり、充実した内容だったんじゃないかと思う。
用意していた質問の半分もできていないが、それでも聞きたかったことの答えは得られたように思った。
彼はノイズのことを「自然」と言っていた。それは風の音や雨、雷の音のようなものだと。だとしたら、アニメーションはどのようなアプローチがとられているのかを時間があれば聞いてみたかった。
彼のアニメーションは「線」しか使われないということもありあまりに「自然」とは離れているように見えるが、しかしその線が知覚の限界を彷徨うことで「自然」へと向かうようなものであるのか、あくまでもあの線は人智によって描かれ動く線なのか。