『ホワイトハウス・ダウン』


なにかと世界を破滅させるのが大好きなローランド・エメリッヒ監督の新作。


万全の警備体制が敷かれ、非常事態になっても絶対に堅牢であるはずのホワイトハウスが襲撃され大統領の命が狙われる。それを大統領警護の面接のために偶然ホワイトハウスに居合わせたチャニング・テイタムが救おうとする、話の筋書きはおおよそこんなものだけれど、敵がついさっきまで大統領警護のトップをやっていた人物であるため、非常時の軍や警察の対応を把握しきっており、さらにホワイトハウスのことも丸わかりでとても手強い敵となっている。(ここまではっきりと敵が手強いことを理解させるアメリカ映画はここ最近では珍しいように思う。『マン・オブ・スティール』の敵なんて、見終わったあとでさえ何がどう強敵だったのかがわからない。。。)
その状況に抗うのは隔離されたホワイトハウスの中で唯一大統領を救える無名の実行者であるチャニング・テイタムと、その彼を司令室からアドバイスを飛ばし援護するマギー・ギレンホール。この現場/司令室による問題解決の構図はここしばらくのトニー・スコットの作品のようであるし、腕にメモした暗証番号でロッカールームに忍び込んでいた男の存在は、お前はどうやってこの厳重な警備のホワイトハウスに入ったんだと思わずつっこんでしまうのだが、その強引な物語の駆動力には『アンストッパブル』での「力行」に入る瞬間のような物語の外側にある大きな力を感じる。
この物語でジェイミー・フォックス演じる合衆国大統領は、戦争をすることで経済を回そうとする立場から離れ、非軍事力の協定を世界で結ぼうとしている。そしてここでホワイトハウスを襲撃するのは、大統領への個人的な復習のようでもあるが、その背後には協定を良しとしていない者の力があるようだ。
大統領がここで語るビジョンは実際素晴らしいものであるし、同時にとても困難なもののように思われる。映画の中でしばしばリンカーンの名前が挙がっていたが、スピルバーグの『リンカーン』でも描かれていた、新たな法を作ることで奴隷制度を終わらせようとする闘いと重ねたいという狙いが読み取れる。
しかし、ちょうど今現在のシリアの情勢に眼を向けると、アメリカこそがいち早く軍事介入に手を上げているという現実がある。
そのような現実がありながら、こうも堂々ときれいごとを語るハリウッドというやつには、やはり所詮は夢の工場なのだと皮肉でも言っていればいいのだろうか。
そもそもチャニング・テイタムは何を思ってあの大統領を助けたのか。その真意を探っても政治的な意志によって彼が動いていたとは到底思えず、せいぜい彼の娘が大統領をリスペクトしているのだから、その大統領を助けたらうだつのあがらない父親でもリスペクトされるんじゃないか?という下心じゃないかと思えてくる。
実際、チャニング・テイタムが大統領を助けるのは娘を助けるという延長で、大統領が襲われているから助けた方がいいという「ついで」であって、そこには警察としての使命感は多少なりともあったかもしれないが、彼自身の考え、もっと言えば政治的な思想はまったくない。
だからこの映画の中でチャニング・テイタムがどれだけ走り回っても、そこにはアクションの背後にある意志が感じられず、どれだけ爆風に吹き飛ばされボロボロになろうとも何も胸を撃つことはないのだが、それとは対照的に間もなくホワイトハウスにミサイルが打ち込まれるということを知った娘が、事件の解決を知らせるために庭から精一杯の力で旗を振る姿には胸が震える。
同じように、大統領を連れて来なければ娘を殺すというアナウンスに対して、何の躊躇いもなく自らの意志で敵の前に姿を現す大統領は勇ましい。
そうしてこの映画はチャニング・テイタムをバタバタと走り回るだけのスペクタクルの犠牲者としながら、大統領と娘の映画として立ち上がっていく。
本来この映画で最も驚くべきは娘が旗を振る直前、大統領の前でその娘が人質に取られ、核ミサイル発射の認証を解除しなかったら娘を殺すと脅されたシーンだろう。そこで大統領は平然と、国民の安全のために娘の命を優先することは出来ないということをその娘に向かって諭すのだ。そしてこちらの倫理観を激しく揺さぶるよりも先に、スクリーンの向こうの娘は静かにその事実を受け止める。
映画のラストで娘は「私の旗ふり見てくれた?」と父親に尋ねていたが、本来はこう言うべきだったろう。
「私が国家のために死ぬことを覚悟した瞬間を見てくれた?」