東京物語を久しぶりにみて


ここしばらくシネヌーヴォでの小津特集に通ってます。
http://www.cinenouveau.com/sakuhin/ozu/ozu.html
これまで小津は少しずつ追いかけていたのだけど、いい機会なのでフリーパスを購入。
一日に何本も観る方が時間は節約出来るんだけど、せっかくの作品をそんな一日に何本を観るなんてもったいない。せめて一日一本くらいがいいのだけど、さすがにそれだとすべて観ることができなくなるので、仕方なし。
朝はきっと年配の方々でいっぱいだろうと思い、夕方ごろから二本観ては帰る、そんな感じでほぼ毎日通っています。今日はFABRIC!があるので行きませんが。。。


何年ぶりになるだろうか、『東京物語』を久しぶりに観て、ちょっと信じられないくらいに感動した。
今年の爆音映画祭で『ディア・ハンター』を観て、こんな素晴らしい映画があるのかと、自分の生涯の映画の中でもベストかもしれないと、そんなことを思った矢先、すでに観たことのある『東京物語』にも同じように生涯のベストかもしれないと思うほど心揺さぶられたわけです。それはもう、画面を正視することが出来ないほど。。。今更わざわざ書くようなものでもないのかもしれないけれど、感じたものを記しておく。
一度観たときはとてもいい映画だとは思ったけれど、それほど震えるような感動を受けた覚えはない。
今回はもう、終止震えっぱなし。人生という大きな喪失の渦に巻き込まれ続ける二時間だった。
そして中でも、原節子が東山千栄子には言えなかったこととして自分の中にある「ズルさ」を笠智衆に告白をするシーンは、観ることさえつらいほどの苦しさを感じた。

この映画は何かにつけ口軽く愚痴や文句を言う美容院の娘や、あるいは何も言わないけれどもやはり仕事を優先するほかない医者の長男、急に体調を崩した母親のことを邪魔に言う大阪の息子、危篤の母を置いて仕事へ行く教師の娘、あるいは急に老夫婦の案内を振られ仕事の休みを取り付ける戦争未亡人。ほかにも、老夫婦の寝床を作るために片付けられた勉強机の代わりに父親の仕事机まで行って熱心に英語の勉強をする息子や、熱海まで行って夜通し麻雀をする若者もいる。
『東京物語』はこうした忙しさの中に身を置く現代人を描いている。その忙しさに追われるようにして、あの老夫婦は尾道へと帰って行く。
母が死んだあと、さっさと帰ってしまった兄たちに腹を立てていた香川京子に、それは仕方がないことなんだと原節子が言っていたように、映画は必ずしもそのことを批判的に扱ってはいない。
そこで原節子はみんなそれぞれの生活があって、次第にその生活が大切になっていく、それは仕方がないことなんだと言っていた。
香川京子はそれに対して、そんなものは嫌だと言う。そんな親子なんてつまらないものだと、そんな風にはなりたくないと。
しかしそう言い聞かせた原節子でさえも、自分もきっとそうなるんだと、まるで何かを悟るかのように、怒るでも悲しむでもなく、和やかな様子で言い聞かせる。
それでも原節子は、この仕方のなさを、ズルいことだとして見ていたのではないだろうか。
原節子の今後のことを心配する笠智衆に、自分は立派な人間ではなく、最近は亡くなった夫のことを考えない日が多い。忘れて行っていると語る。
彼女が言う仕方のないことというのは、人が生活する上でどうすることも出来ない、抗うことのできないもののように思う。
生きているうちに、親からは離れて行く。次第に離れてからの時間の方が長くなる。かつて知らなかった世界に触れることの方が圧倒的に多くなってしまう。亡くなった人のことも、時間とともに記憶が風化してしまう。忘れていってしまう。これはどうすることも出来ないことだと思う。
人間が抗うことの出来ないその仕方なさを、それでもなお原節子は「ズルい」ことだと見つめていて、そのことに対して笠智衆は「あんたは正直な人だ」と言っているのではないか。
そしてそう言う笠智衆でさえも、亡くなった嫁に対して、もっとやさしくしてやったら良かったと言うのだ。
この映画が貫くのは、それは現代人の忙しなさに対してではなく、人間が抗うことのできないそのズルさではないか。
ラスト、郷愁を誘うように流れる唱歌をぶったぎるようにして汽車が通過し映される原節子の眼差しにあるのは、それでもなお、そのズルさを貫かんとする、怒りと悲しみであるように思った。

『東京物語』は28日の16:00、29日の14:30、7/1の18:10から上映が残っています。