いや、一足先と言うわりには一年か二年ほど待ってようやく観ることが出来たわけだが、これまで周りから少しずつ噂に聴いていた『ひとつの歌』をようやく観ることができた。
四コマ漫画にして説明出来てしまうほど数少ない出来事が運ばれていく100分間で、でも四コマではとても伝わらない時間と時間の余白を観る、そんな映画だった。
私たちの周りに流れている時間が確かなものでないなんてことがあるものか、と作り手が考えてこの映画が作られたかはわからないが、そこでは空気のようにふわっと浮かんでは運ばれてまた現れるもののようにして時間が形作られまた流れていた。そこに空間が広がり、時間が流れる。
どんな些細な瞬間であろうとそれは確かなことなのだ、という手触りだけが、その確かさを立ち上げる、そんなギリギリの危うさを孕んだ映画だった。
ここに映される時間は街を交通する車のように、おおらかでゆるやかで時に激しく流通し、だから不意に衝突することもちらほら。
その時間の衝突をカメラマンの主人公が写真に収める、ということではなく、その写真もまたそこに流れる時間と限りなく近い存在として、決定的な何かが浮かびあがるということはしない。
インスタントカメラがじわじわと像を浮かび上がらせるその間の時間をこの映画は記録している、というようなことが言えるだろうか。
インスタントカメラはシャッターを切ってからしばらくするとそのフィルムというかプリントにゆっくり像が浮かびあがる。わずか数分、像を結ぶまでの間の輪郭の不確かな時間、まだ定着しきらない、そこへ行き着くことを迷うかのような時間がそこにはあって、そのそのもやもやとした状態を映画はスクリーンに映し出す。
そのもやもやとは記憶のことなのかもしれない。
世界には、シャッターを切ればバシッと浮かび上がる今という輪郭がある。
しかしその背後に、あるいは前方には、もやもやとした記憶が漂っていて、その過去と未来の記憶が定着した形としてたまたま今という輪郭が浮かび上がっているだけだとでも言うような、そんな危うさと揺るがない確かさに貫かれている。
だから空気が流れるように、時間が流れるようにして、この映画で私たちは流れている記憶を見つめることになる。
その記憶と記憶、時間と時間、記憶と時間、その衝突、その兆しを、100分か、あるいはそれ以上の時間をかけてゆっくりと現像する、そんな映画だった。
12月15日から一週間、18:30より神戸にて上映>>>http://kavccinema.jp/lineup/701