『TRASH-UP!!』の新刊No13が発売されました。そろそろ書店に並び始めたでしょうか。
今回は新たに福井KBBによる漫画が掲載されてます。
いつもの連載では『サイタマノラッパー3』を足がかりに、自主映画について思うところを書いてます。
商業映画だろうと自主映画だろうと、今の日本で作られる映画のイメージがどれもあまりに似過ぎてやいないかという違和感がある。
TRASH-UP!!誌でも取り上げられていた『先生を流産させる会』や『へんげ』など、恐怖映画、怪奇映画としての立ち振る舞いは堂に入っているけれども、やはり既視感は拭えないし(良質な映画のフォルムを身に纏うことを目標とするからこそ既視感を感じるのだろうが)、その立ち姿の奥にうまみのようなものを感じられずどうにものめり込むことが出来なかった。恐怖を安心して眺める事ができる時間だった。
『旧支配者のキャロル』などを観ると、ここに映る映像が新しいわけではないけれど、それでも映し出されるカット、音を、常に新鮮さとともに受け止めることが出来た。新しい映像ってのが何なのかはよくわからないけど、カットから新鮮さのようなものを感じずにはおれない。だからこそその奥に考えが及ばないような何かが潜んでいるようにも思える。
ところで『サイタマノラッパー3』はどうかと言うと、すべてのカットが長回しになっており、似ているというほどのサンプルがあるわけではないのだが、その手法が生産的であるかというよりも、むしろ消費的映像のように思える。何かを使ってまた別の何かを生み出すのではなく、何かを獲得してそれと同じかそれより小さいものとして流用する。
そこで何かが発生している、その現象を確認するのではなく、かつてどこかで発生した現象の確認する時間が流れる。
映画は記録された過去を観ることしかできない。その前提の上でなお、それでもスクリーンの上に何か新たな現象が起こっているように感じることがある。過去の映像と投影される現在の運動の中に火花を起こすような跳躍が産まれる瞬間がある。作り手はその跳躍のためにそれぞれ賭けをしているわけだが、その賭けが競馬なのか競艇なのか、はたまた賭け金の違いはあれ、みんな同じに思えてならないのだ。背負っているリスクが同じなのか。
そのような疑問から今回の原稿は出発している。
全国民にぜひとも読んでもらいたいです。ほんとに。
それから福井KBBによる漫画。
先の原稿が掲載されてるのと同じ2ページが割かれています。4秒で読めるので、なんども読み返してみました。
福井という人物を知っているからこそ、この漫画に書かれていることも、書いているその筆致から何を考えているかもわかるし、それをおもしろがることは出来るのだけど、そのことを面白かったと伝えることはあまりに薄情なことに思えてならなかった。
作り手の意図と無関係にいろいろ考えさせられる漫画でした。