ご無沙汰しております。
しばらくイベント続きでバタバタしていましたこんばんは。
9/21からの『Playback』イベントも無事終わり、直後には映画の授業もあり、そして『カルロス』の爆音上映まで。ほんの一週間ほどの間にイベント立て続けで生業もあったりしてさすがにちょっとぐったりしましたが、どれも盛況で楽しく終われてなによりでした。
お越しいただいたみなさまどうもありがとうございました。
外でお喋りする機会はあまりない私たちですが、オールナイトや『やくたたず』のトークでは言葉が届いたように思える反応がいくつもあり、大変励みになりました。
日頃から映画を語るということと批評というものがもっとゆるやかに、当たり前に結びつかないものかという思いがあり、ラジオやFABRIC!などを企画するのですが、私たちが日頃考えていること、実践してきたことは間違いではないのだという事をその場におられた方の反応から感じる事ができました。
映画の本質を良質な言葉のもとに語ることは必要だし、私たちもそれをやっていきたいと常々思っていますが、先人の方々のトークを拝聴するとほとんどの場合でそれを語るときの言葉の投げ方、もっと言えばちょっとした立ち居振る舞いを退屈に思うことが多く、その姿勢の上ではどんな言葉も聴き手に届く前に失速しているとしか思えず、良質な言葉が届かないことに歯痒さも感じてきました。
映画を熱心に追いかける人はそれでも歯を食いしばって言葉にくらいつくでしょうが、そういう人に言葉を向けることよりも、映画ってなんだろう?って好奇心を持っている人を刺激できるような、さらには関心を持っていなかった人に疑問を持たせられるような言葉を投げて振り向かせたいと思いました。
「う〜む」って唸ったり唸らせたりの唸らせ合いっこは誰か他の人に任せるとして、言葉を娯楽として投げかけながら、そこにいくつもの批評というフックを加えることこそ今必要なラディカルな態度ではないかというのが僕らの考えです。
『カルロス』爆音の打ち上げの席でナンシー関が映画を見なかったということを初めて知ったのだけど、その理由は確かその時代の映画というものがいかにも高尚なものであり過ぎたから、それを観たり言葉にすることによってそういう高尚さと結びついてしまうことを嫌ったということらしいです。
その名残は現在でも微かに残っているように思う。映画はいくつもの芸術の要素を含んだ知的な魅力があるし、多くの人たちの仕事の上にしか成立しないから人間臭さもとても濃い。
だからといって崇めてばかりいたら誰も近づけないほど高いところにたどり着いてしまうし、とはいえ無闇に貶めることなんてないけれど、唸り合った人たちを蹴散らし孤独にたどり着くよりも、好奇心や関心を引いて周りが賑やかになっていることが今の時代には何より知的で価値ある事ではないかと思う。
イベントなどをそのきっかけとして、これからも人の集まる時間を作っていきたい。その時間がまた豊かな時間を用意してくれる。