オタール・イオセリアーニ監督の『汽車はふたたび故郷へ』を観た。
相変わらず彼の映画の登場人物は自由である。不満があれば口にする。それでも通じなければ殴る。不快なことがあれば頭突きする。いつも傍には酒とタバコがある。いま、目の前に転がっている時間は私のものだということをよく知っている者たちが映し出される。
彼ら一人一人が何者であって何をしているのか、目的は何なのかははっきりと明かされないが、腹に抱えた意図と策略と魂胆と逸物はふらふらとくゆる煙のように浮かび上がっては互いに干渉し合い消えて行く。そうやって時間はすぎて行き、様々な人間の生きてきた屑がまとめられて一本のフィルムを形作る。ここにあるのは、映画を作るという名目の下に集まった者たちが力を結集してひとつの作品を作り上げた結果というよりも、名目が立ち上がるよりも遥か以前からそこにあった得体のしれない力を、知ってか知らずか集まった仲間たちで一本のフィルムという形に落とし込んでみただけとでも言うかのような、世界の懐の大きさと私たち一人一人の人生の大きさがすべて等価にばらまかれている、そんな映画である。
ここで映される彼らは、見事に自己を表現していた。
いわゆる「自己表現」というものは何かを作ることだけにつきまとう言葉ではなく、個人が生きる上で、人生を手にするために行われる身振りすべてのことを指す。
例えばダンスホールで肩がぶつかり気に食わなければふざけるなと主張する。あるいは映画の編集を巡り、監督が編集権を奪われた時、それに納得がいかなければ編集者を脅すことまでする。そうすることでより状況が酷くなる場合だってあるだろうに、この映画では迫害や封殺、排除には屈さない。
とはいえ、この映画を観て彼らが自由を勝ち取ったとは思わない。なぜなら彼らは予め手にしていた自由を過不足なく正当に取り戻しただけだからだ。自由とは、誰しもが予め同じだけ与えられていながら、あらゆる排除の声によって目減りしていくものであり、常に取り戻し続けなければならないものだ。
だから自由はめんどくさい。そのめんどくささの度合いによって、人それぞれが抱える自由の量が違ってくる。そしてその平均値のことを「平等」という。なんてことはない。平等なのは誰もが予め持っていた自由だけである。
そう、この映画では人間も犬もハトも人魚も兵隊も音もカメラも平等に自由だ。ジャケットが次々に交換されるのも、ジャケットの着られる自由を誰もが知っているからであり、ジャケットが交換されるのと同じ身軽さで窓は跨がれ扉となる。そうしてフィルムは上映されるべく人々の手を渡って行く。映画が抱える自由を主張するためにフィルムは映写機にかけられる。
そこには役者と浮浪者と犬がいて、同じようにカメラと照明とチェロがある。それを扱える者がいて、秩序を侵さない無秩序の中でスタートとカットの掛け声が響き、誰もが意図と策略と魂胆と逸物など遥か昔に置いて来て、いつの間にかどこへ向かうでもない時間が広がりはじめる。
一瞬の時間が永遠の広がりを生み出し、その広がりが世界の、私たちの自由を目覚めさせる。
ただ釣りをするように映画を観ていただけなのに、人魚の後ろ姿とともに、この映画は遥かな旅へと誘うのである。