『クローズZERO』二作はキャストを引きずっていたが、今回はほぼ入れ替え。以前の学生たちが数年後の姿で数人登場するのみ。
監督も三池崇史から豊田利晃へと変わったが、豊田作品にしばしば見られる男たちのナイーヴさも抑えられ、シリーズものとしてのテイストも引き継がれていた。
このような映画を観たときについつい思い出してしまう「東映やくざ映画」のような高感度フィルム特有のギラついた質感は、現代のフィルターを通してざらつきとして変換されていながら、屋外での光などを観ると確かに映画の質感を備えていて、レンズを通して映画を撮れる作り手であることを再認識した。
冒頭、母親に連れられ施設の入り口に立つ主人公のもとに灰みたいな汚い雪が降っていたが、これももちろん雪をきれいに撮れないのではなく灰みたいな雪を撮ったのだということは後でわかる。
その中で永山絢斗演じる黒咲高校の藤原が、たとえ産業廃棄物を燃やすすぐ隣で生活をしていようとも、自分だけが特別であるかのように–自分こそが灰の申し子であるかのように–振る舞うことには弱さを感じる。この映画に出てくる人物たちは皆この「灰」を浴びながら生きてきた。誰もが平等に灰の申し子なのだ。
だから「我こそが灰である」と主張する藤原が最後の最後で急に白けるのも当然だろう。
藤原の無闇な強襲にいらだつ柳楽優弥が火のついたタバコを手で握りつぶしたように、この映画が言うテッペンとは「我こそがもっとも熱い」ということを、自分こそが「エネルギーの塊」であるということを競っているのだから。
しかしタバコよりも熱い柳楽優弥よりも、どうやら熱いらしい早乙女太一や東出昌大は、いったい何がどう熱かったのだろうか。かつて『血と骨』で燃える炭を手で掴んだビートたけしのように、こちらに痛みを感じさせるような強烈なショットが欲しかった。
とはいえこの映画は若手の生き生きとした芝居が見れて面白い。
漫画「キャプテン」が野球部のキャプテンを主人公にして毎年主役が変わっていたように、この映画でも毎年テッペンは変わるのだから堂々と毎年キャストを変えてシリーズ化してしまえばいい。
どうやら日本映画はやくざ映画やヤンキー映画になると急に豊かなディテールを描き始めるようだし、観客もまるでラーメンの趣向のようにヤンキーには一家言持っているようだから、作り手と観客双方にとっての緊張感ある豊かな磁場が持てるのではないか。