『アイアン・フィスト』


タランティーノの『キル・ビル』や『ジャンゴ』で音楽を担当しているRZAがタランティーノ製作でカンフー映画を作ったと聞いて、それなりにうれしい気持ちがありながらも、至極真っ当なB級映画なのだろうという見立ても出来てしまいそこまで期待はしていなかったのだが、いやいや、これがとても楽しい映画で驚いた。


もちろん真っ当過ぎるほど真っ当にB級カンフー映画なのだけど、その真っ当さ、「カンフー映画って、これでしょ!」という好き者の勘違いの強さにぐいぐい引っ張られる。そんなノリで「映画作ろうぜ」って仲間と集まってるうちに次第に膨らんでいってそのまま出来上がってしまったような、何かを作ることの楽しさに溢れた映画だった。
物語もそんな感じで、オオカミ・クランとかライオン・クランみたいな感じでいろんな奴らが集まって戦ってる。
RZAが監督・主演で鍛冶屋をやっていて、タイトルは『アイアン・フィスト』、つまりどこかで誰かが「アイアン・フィスト」になるわけだけれど、食事をするとき、その鉄の拳を身につけた状態で箸を持とうとするシーンがとてもよくて、アイアン・フィストは肘の辺りで切断された手の代わりにつけられた鉄の腕で、型に流し込んで作られた鉄の塊は機械化してるわけでもないので箸を持てるわけはなく、「お前はフォークにしとけ」って言われるわけだけど、それでも指先が微妙に動くような動かないような、持てそうな持てなさそうな勢いがあった。いや、映画の設定としては動かないはずなのだけど、そのアイアン・フィストは美術としては実際に手袋のようになっているものをはめているわけだから微妙に指先は動くようになっていたのだと思う。その様子を作り手が見て、箸を持つシーンを入れよう!って思ったのかそもそもそういうシーンがあったのかは知らないけれど、そんなノリでそのシーンを撮ろうとしたらやっぱり箸が持てなくて、じゃあ持てないってシーンでいいやという感じで出来上がったような、なんとも言えないグルーヴのある面白いシーンだった。
かつての映画への愛やノリでモノマネとして始まったものが、やってるうちに次第に実感や実態が生まれ始めて、さらにはただの物体である鉄の拳に神経が通ってしまう、そんな別の回路が開けてしまうような映画と言ったら言いすぎだろうか。先日観た『アート・オブ・ラップ』の中で監督のアイス-Tが「ヒップホップとは再生ではなく蘇生の音楽だ」みたいなことを言っていたけど、ヒップホップだってかつての音楽からトラックを作り、先を行く者を真似るようにラップをしていたら次第に言葉が自分のものになって、その再生しながら蘇生へと変転する運動のことをヒップホップというのなら、ここに映っていたものはヒップホップのような映画だと言えるんじゃないかと思う。
この映画の作り手たち自身がアイアン・フィストとなり、記録するためのものであったカメラが世界を見るための眼になって、マイクが耳となり口となる。そうやって世界に触れること、知ることの楽しさに突き動かされているうちにいつの間にか完成したような映画。そんな力がそこかしこにあった。
B級映画のBとはB-boyのBだったのかと思わず勘違いをしてしまうほどのカンフーとヒップホップのはまり具合も良かった。you-tubeなんかにアップされるヒップホップの人たちが作る映像もこの映画みたいにツールを通して世界に触れる楽しさで溢れているけれど、とはいえそれはあくまでも尺の短い映像で、でもそんなノリが維持されたまま映画が出来てしまっていて、映画を作ることのハードルがかつてとは比べ物にならないほど低くなっていることを感じずにはおれなかった。そのことには素直に驚く。