濱口竜介プロスペクティブが始まっている。
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ようやく一本目として『THE DEPTHS』を鑑賞。
この映画はカメラマンが主人公の映画である。その中で男娼の男とすれ違い、また偶然再会することから、主人公(キム・ミンジュン)はそのリュウという男娼の男(石田法嗣)をモデルとしてカメラを向け始める。
ひとえに、写真とは「見るもの」だ。カメラマンが見て、捉えた瞬間を私たち観客は見ることになる。
だからカメラマンもまず第一に「見る人」だと言っていいだろう。物事をよく見て、その視界の先にある人間や、自然、建築、風景といった対象を一瞬に閉じ込める。
カメラマンが何かを見る、そのときの視線の強度。それによって写真は多くの時間と多くの瞳にさらされることに耐えうる。
あるいはカメラマンが何かを見る、そのときの思考の強度。それらの強度を映画は『THE DEPTHS』と言っているように思う。
いい写真とはそれら視線の深さによって決まるのだろう。
同様に、モデルとは「見られる人」である。いいモデルとは無数の視線に耐えうる深さを身体に秘めた存在と言えるだろう。
この映画に出てくる役者たち、プロフィール写真を撮りに来たリュウと偶然再会したときのキム・ミンジュンも、マジックミラーの裏から部屋をのぞく村上淳も、どれだけ多くの観客の視線を前にしようと、用意に貫くことのできない強さを持っている。
だが、この映画では主人公であるカメラマンはモデルとなるリュウに対して、良いモデルになるために「周りをよく見なさい」と語るのである。
仮にモデルという存在が「よく見ること」を必要とするなら、写真は私たち観客にとっては「見られるもの」でもあるだろう。
ヴィム・ヴェンダースの『パレルモ・シューティング』で、カメラは撮ることと撮られることとが裏返しの関係にある双方向の矢として描かれていた。映画の中で主人公は自らを捕まえようとする死神に対して「あなたを助けたい」と語ることによって生き延びるのだが、それは死神の「殺したい」という意志を打ち消すには十分な矢であった。
そのような双方向的なものとして、カメラマンはモデルに対して「よく見ること」を促していたのではないだろうか。
これから撮られる写真が、その写真をこのあと見るであろう観客を「見つめ返す」ことを、モデルは先取りする。その先取りされた見つめ返す視線の深度によって、写真は「見られるもの」になるのである。
つまりこのカメラマンも見られる人であることを見る人であることによってよく知っているのだ。あるいは、見ることの強さと同じだけ見られることに強いのだ。
主人公はスタジオを持つ友人に対して「お前は弱いやつだ」と言っていたが、その弱さとは、無論、見ることの弱さに他ならない。友人が弱いから嫁の写真を見せられないのだ。強くあることで人はより深く見ることが出来るようになる。そしてより深く見ることによって、人は強くなるのである。その強さを、深さを、カメラマンはモデルに求めた。
では、誰もがよく見ようとすることによって強くなることが出来るのか?
終盤、欠航となった飛行機を待つホテルの部屋で、主人公の部屋を訪ねようとするリュウを正面から捉えたショットからは、主人公が撮って来たポートレートのように、見られることに対する強度が十分に宿っていた。
しかし次の瞬間、ぽっかりと空いた廊下に二人の男の姿が映し出され、たちまち世界は崩壊する。
あるいはその直前、カメラマンがリュウの部屋を訪ねようとしたとき、携帯から子どもの泣き声が聴こえてくる。
どれだけ強さを備えようとも、このどちらもに備わる運命的な脆さの上で、人はうろたえながらもがいている。
その不意に訪れる大きな揺れを生き抜くために、「THE DEPTHS」を蓄えるのである。
第七芸術劇場 7/7 20:40〜
京都シネマ 7/16 19:00〜