ご無沙汰です。
なんだかんだの間にRuffiN’ vol.2終わりました。
多くの方に集まっていただいて、おかげで最高のパーティーになったと思います。
ありがとうございました!
それからFM DOOM!23配信中です。
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念願のジャン・ユスターシュの『ママと娼婦』を観た。
いったいどんな映画なのかと、この見れなかった何年もの間に妄想が膨らみに膨らんだ状態で見たそれは、220分の間、女狂いのレオーがひたすら女を追いかけ回しているだけの映画で、映画ってやっぱりこういう色気狂いを堂々と映すことが出来るから素晴らしいんだなと、改めて映画の素晴らしさに浸っておりました。
その翌日に観た『L.A.ギャングストーリー』は、言うなれば『ママと娼婦』とは真逆の映画。
ギャングを撲滅しようと目論む警察が秘密裏に内部で組織化し、暴力的にギャングを叩きのめす。
公権力を持った警察でさえギャングに太刀打ち出来ないからとギャング化するわけだけど、なんかもうみんなすごく生真面目で、そりゃ警察になるくらいだから真面目で当然なのかもしれないけれど、みんなまったく無駄がない。
ましてや彼らは普段の職務とは別にギャング仕事をしているわけで、それは組織としては存在しない仕事だと言われているのだから、つまり金にもならない仕事なはず。そんなにギャングを潰すのは楽しいのかと、遊びに行くよりも素晴らしいものなのかと、見事に与えられた職務を演じる人たちを見るのはとても苦しい。
レオーは『ママと娼婦』の中で「俺は働かない」と言っていたけれど、ここに居る彼らは積極的に働いて、しかもそれが与えられた仕事を期待される通りに働くだけの人たちで、そんな人たちの動かす物語から、映画が、フレームが崩れだすような瞬間が立ち上がる期待は微塵もなく、ある意味ではその無期待を裏切ることなく見事に盗聴をしていた男は言われた通りに一人アジトに残って盗聴をして襲われるわけで、こんな見事な非生産的な労働としての演技なんて見たくないわと、とても嫌な気分になった。
明日から仕事がんばろう、なんてことを思わせる映画ばかりに嫌になる。「明日仕事行きたくねぇな〜」って思わせる映画って確実に減ってるよね。
夜はイメフォフェスで「ストム・ソゴー」プログラムを。
「声に導かれて」という作品は、映画を観ている自分が、客席に腰をおろしていながら、今、どこにいるのかがまったく不確かになるような作品だった。
普段映画を観るとき、それがどれだけ過去に記録されたものであろうと、スクリーンに映される光は少なくとも「今、この瞬間」に投影された光を見ているはずで、映画はその瞬間瞬間に失われて行くかけがえのない時間を美しく見せてくれる芸術だけど、このストム・ソゴー(十河力-ソゴウツトム)という日本人の作品は、その「今、この瞬間」でさえも存在しないものとしてスクリーンを占拠していた。
観客はその「今」をよりどころにすることで、安心して映像に身を預けることが可能となり、またその「今」が楔となって映像から時間と空間を越えた表現を獲得するとしたら、彼の作品は、その何の確証もない「今」を作り手自ら手放すことで、観客に藁をも掴ませないような恐ろしい体験を遭遇させる。多くの映画が、今、そこにある映像という現在を残像として見続けるものだと言うなら、彼の作品はそもそも残像である映像の残像を観るような、幽霊の幽霊に遭遇するような、得体の知れない恐ろしさがある。
作品の毛色はまったく違うが、『Playback』とは真逆の作品と言えるかもしれない・・・。
下のリンク先で牧野貴さんがストム・ソゴー作品について紹介されてます。真ん中辺りから。
http://www.ustream.tv/recorded/31898131