『Playback』「既視感の呪いを解くよろめき」

世界は既視感で覆われている。どこにも「新しい」何かは存在せず、すべてはかつて産まれたものの焼き直しである。などということは言うまでもなく遥か昔から自明となっており、それと同じように明確な「終わり」が訪れることもあるはずがない。
私たちはその新しさも終わりもない世界を生きている。『Playback』はそのことを見て見ぬ振りをすることなく、既視感に包まれた現在を真正面から映し出す。
だからこの映画には私たちの良く知っている時間ばかりが映し出される。かつて過ごした学生時代の空気も、地元に帰ったときに感じる居心地の悪さも、あるいはいずれ訪れるかもしれない身体を悪くするときや、長く連れそった女と別れることも、スクリーンの向こうに存在する見ず知らずの他人の時間としてよりも、身近な親戚の出来事のような親近感が既視感とともに映し出される。いや、もっと明確に言うならば、ここに映されているのは自分のことなのかもしれない。かつて過ごした時間や、いつか訪れる時間、あるいは訪れ得なかった時間すべてがわたくしごとのような身近さで語られるからこそ既視感を感じずにはおれないのだろう。それはひどく居心地の悪い厳しい時間である。

この映画は主人公であるハジという男が眼を覚ますところから始まるが、一人の男が自宅で目覚めるシーンから始まる映画など、これまでどれほどスクリーンに映されてきたことか。
あらゆる映画の中で描かれた特別な物語は日常を覆い尽くす商品となって日々の生活に浸食し、私たちの日常に訪れる些細な出来事でさえも映画は自らの肥やしにしてきた。そうして飽和しきった退屈なまでの既視感を十分肌で感じていながら、それでも「新しさ」らしきもの、あるいは何かの「終わり」らしきものを捏造し続け、映画は、世界は駆動している。
無論、そこにあるのは欺瞞だ。
それでも何かが新しく誕生したかのようにして、風景のスクラップ&ビルドを繰り返し、商品が、映画が、人間が、消費され、消費し尽くされることなく時間とともに風化し、疲弊し、終わったことにされる。
この『Playback』の監督三宅唱は、前作『やくたたず』において、役者やスタッフや映し出される人物の表情や言葉や出来事という映画にまつわるあらゆるものを「やくにたつ」ものにすることを放棄し、いつのまにか過剰な労働をさせ搾取してしまうのではなく、因果関係から解放された自由な存在としてイメージを扱うことによってのみ真の自由は映し出されると確信する反逆野郎である。
このあらゆるものが複雑に絡まり合った不自由極まりない世界で一つの圧倒的な自由―それはあまりに圧倒的な、自由そのものが存在しているかのような「自由」―を作り出すことに成功した作り手が世界の欺瞞を見て見ぬふりをするはずはなく、「新しさ」とはどこにあるのだ?ということを「既視感」を映画の核に据えることによって見つめ始める。
それは新しさの号令によって加速する世界への抵抗であると同時に、消費し尽くしたかどうかも不確かなままありもしない消費期限によって交換されるイメージたちを、まだ発見されていない力が眠っているという仮定のもとに奮い立たせ、眼を覚ます瞬間を記録するということだ。

映画の冒頭、ハジはどこか身体の具合を悪くしたのか、病院へ行きレントゲンを撮る。そのレントゲンに写された影によって、ハジは病気の気配があるということを知る。ハジの身体の中に眠っていたイメージが現勢化した瞬間の記録としてのレントゲンとでも言おうか、ハジの身体にいつごろからか眠っていた影が、レントゲンによって眼を覚ましたわけだ。
それ以降、ハジの中に眠っていた高校のころの記憶が「再生」され、そこから映画は思いもかけない方向へと進む。そしてこの映画もまたレントゲンのようにして、風景を、人物を撮影することによって、時代の「影」を浮かび上がらせる。新しいものなどなにもなく、世界は既視感に覆われている。が、しかし、それでもすべては今も変わりつつある。そう確信させる何かが未来を先取りすることによって映し出される。過去の痕跡は未来の影なのだ。

「既視感」を核に据えたトニー・スコット監督の『デジャヴ』は船の爆破事件とともに幕を開ける。この事件を捜査する主人公のダグは、現在の時間と同時に進行している4日と半日ほど前の映像をもとに犯人を絞り出す。しかしその過去の映像はすでに彼らが過ごした時間とは微妙に違い、現在と同時に平行して進む4日と半日ほどずれた時間であり、そこに写される被害者のクレアはこのあと事件に巻き込まれ死ぬことになるが、その世界ではまだ生きており、死ぬことになっているわけではない。そしてなにより、こちらからの視線はその過去に干渉することができるらしいのだ。視線を強くし過去に影響を与えることによって、彼女は死なないかもしれない。そのことに気づいたダグは兼ねてからの夢だった「事件が起こる前に犯人を捕まえたい」という些かパラドックスを含んだ目標のもと、その過去の時間へと視線どころか身体を移し事件を防ごうとする。ここでの過去を映し出す装置とそれを操るダグの存在もまたレントゲンと同じく「眠っているイメージが眼を覚ます瞬間の記録」と言えるだろう。ダグは過ぎ去った時間を凝視することで未来をあぶり出していた。それはつまり、「常に世界には未来が予示されている」ということだ。未来の影はすでに世界に散らばっている。その未来をダグは先取りすることによって、犯罪が起こる前に犯人を捕まえることに成功する(とはいえダグも犯人も死んでしまうが)。事件はそれが先取りされる限り、会議室で起きているのでも現場で起きているのでもなく、すでにここでもそこでも起きている。その兆しを発見しろと既視感は退屈な身振りで挑発するのだ。

『デジャヴ』における既視感は現在と同時進行で進む過去の時間であったが、『Playback』の既視感は多少複雑である。ひとつは高校時代の回想であるが、その回想を過ごす彼らの姿は現在の40歳間近の姿であり、ハジにとっての高校時代を現在のハジの視線で―つまりハジにとっての既視感の視線で―過ごす。そしてもう一つは現在のハジが水戸へ行く時間。墓参りや結婚式に参加する時間がフラッシュフォワードし、もう一度繰り返される。そこに現れる既視感は、ハジにとっても、私たち観客にとってもすでに見たことのあるものとして映される。
世界は既視感に覆われている。どこにも「新しい」何かなどは存在せず、すべてはかつて産まれたものの焼き直しだ。などということは言うまでもなく遥か昔から自明となっており、それと同じように明確な「終わり」も訪れない。
既視感を観るということは、「すでによく知っている」という一言で一蹴されてしまいかねない危うさがある。男が眼を覚ますところから始まる映画も、その男の行動が繰り返されるということも、さらにはハジを演じる村上淳という役者がこれまで何度もスクリーンに映されてきたということも、私たちはそれらを何度も観て来た。さらに言えば映画を観るという行為そのものが「すでによく知られた」ことであり、日々を生きるということも同じだろう。「行為は同じでも作品が違う」という言葉などまやかしではないか? 「毎日が新しい一日」というが、ほんとうにそうだろうか? 私たちは、実は「明日のこともよく知っている」のではないか? しかし、それでも、人はこうして生を繰り返し、映画館へと歩むのだ。
先に書いたように私たちはすでにあらゆることを知っている。それでも同じことを繰り返せてしまうのは、「すでに十分知られているということなどはない」ということを、身体こそがよく知っているからではなかろうか。その言葉が私たちの身体には眠っており、だから理屈よりも先に歩が進む。そうして日々を更新するという繰り返しの行動によって、その言葉が身体の内から何度も何度も再生される。「私たちはすでにあらゆることを知っている。しかし、それでも、十分知っているということなどはない」という「それでも」の一語とともに次の一歩がはじまる。そのことを『Playback』自身もまた、自らを繰り返し再生することによって語り始めるのだ。そして既視感という呪いをかけられた私たちの生を解放する。

先の震災にまつわる映画ではないにも関わらず震災によって崩れたアスファルトをスケートボードで滑走するのも無論そこに賭けられている。震災を扱うということはデリケートなことであり、また震災以降の映画として色物扱いされ兼ねない。
震災の傷跡が生々しい2011年の夏の水戸の様子はこの映画のメイキングにはっきりと記録されており、墓参りのシーンに使われた墓地は、本編に映されたあの一角以外はほとんどの墓石が倒れたままになっていた。本編を観ただけではそのことに気づかないように、この映画は震災の跡が不用意に映り込むことを徹底して避けている。それでもアスファルトが剥き出しになったあのロケーションが選択されたのは、あの日に東日本を揺らし、多くを呑み込んだ津波が文字通り波打った状態であの日のままの姿を残しているからだろう。
波というイメージは3月11日を境に暴力的なものとして固着した。押しては返すだけだった波に眠っていた破壊のイメージが眼を覚ましたのだ。そして何よりあらゆる場所で、あらゆる波が、報道、監視カメラ、素人の携帯ムービーというあらゆるカメラによって記録された。震災の痛ましい記憶を抜きにして波を見つめることはできなくなった。そう、9・11以降、飛行機と見上げる仕草がテロと結びついたように。
そのイメージをスケーターたちがゆるやかな滑走とともにトレースし、3月11日に東日本を襲ったもう一つの波―地震―で荒れたアスファルトに眠る波のイメージに揺さぶりをかける。「私たちは津波/地震のことをよく知っている。それでも・・・」という一語によって、波打つアスファルトの遊び場としての側面が浮上するのだ。もちろん、波は震災の前にも後にもサーファーにとっての遊び相手であったし、スケーターにとってストリートは遊び場だった。隆起したアスファルトは田舎に行かずともみつかるし、大津波は何年かに一度世界を襲っている。学者が言うように3月11日の兆しは至る所に眠っていたのかもしれないし、原発事故の未来も、もっとはっきりとした形で見えていたはずなのだ。しかし、そこに「それでも」の一歩はなかった。
だから既視感を恐れることなく「それでも」と身体を動かし続けなければならない。この映画のはじまりはそもそも「あんだよ」とかなんとか、ぶつくさ言ってミルクを飲んでいただけだった。そうぶつくさ言いながらも、その動きが段差に足をくじくよろめきへと転がり、そのよろめいた足がまた片方の足を地に踏ませる。そのよろめき、その一歩、その先には新たな言葉、新たなイメージがあるはずなのだ。3月11日以降見尽したと思っていた震災を、波を、「それでも」この映画は新しいイメージで映し出した最初のよろめきとして記憶されるだろう。シナリオに予め「地震のあと」というキーワードが入っていたということだが、作り手はシナリオを準備するために世界を見つめるうちに知らず知らずに兆しを発見し、震災の未来を先取りしていたのかもしれない。あるいはそれそのものが「それでも」の一歩だったのかもしれない。どちらにせよ、その事実は今となっては世界の厳しさを証明するばかりである。
しかし、それでも、この映画なりの言葉を続ける。未来を先取りする限り、今も世界は震えている。だからハジはもう一度マイクの前に立つ。そこでの彼は「役者/Actor」ではなく、「再生する者/Player」として存在し、彼がこの二時間―あるいは40年―の間に「記録・記憶/Record」したイメージが「再生/Playback」されるだろう。
マイクはすでに震えている。そしてその震えが、また新たなよろめきを生む。
未来を再生せよと、この映画は挑発している。

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