一人の年老いた男とデートクラブらしきところから派遣された若い大学生の女、それからその女の恋人らしき男の三人がただ会話を交わすだけの映画なのだが、そこに映されるものや聴こえてくる言葉だけでは見ることのできない関係性を想像させることによって浮かぶサスペンス映画だった。
ここでは誰がどのような存在であるかはあまり明確には語られない。老人の職業は何なのか、女とはどのような関係にあるのか、女を呼び寄せた目的はなんなのかが明らかにされることはなく、その女にしてもこの仕事がどういったものなのか、何を考えて(あるいは何も考えないから)あけっぴろげな性を解放するのかもよくわからない。唯一加瀬亮演じる男だけが車の修理工場を営み、女と付き合っていて、結婚も考えているという事が明かされるが、そんな身元などどうだっていいと言わんばかりにカメラはただのじじいとただの女を映し出す。
ファーストカット、バーのようなところが映され、女が何か喋っている声が聴こえてくる。次第にそれは男からの誘いを断る内容のものであることがわかるが、眼を凝らしても女が画面のどこで話をしているのかはわからない。すると画面は切り替わり、声の主である女が映し出される。そもそも画面の中にその女はおらず、むしろ彼女が見ていた光景に近いものを私たちは見ていたようだ。すべてを見ることができると思っているのがそもそもの過ちだと言わんばかりのキアロスタミの視線とでも言おうか、そのことを彼なりのやさしさなのかなんなのか、掌の上を転がされるように、見るという行為だけでは把握する事のできないものが常にその背後に溢れている。見えるもの以上のものはわからないのだが、見えないものが人間にはこびりついているのだ。
この映画ではっきりとしているのはそこに映される人物の身体、あるいは風景という事実くらいのものであるにも関わらず、キアロスタミがこれを見ろと映すものは巧妙に断定できない曖昧さの中を漂い続ける。
いったいこいつは何者なのだ?という問いは空転しつづけ、しかしその空転しながらも僅かに理解する存在のぎりぎりの確かさの上で彼らは何人もの人間とすれ違う、そのスリルは心地いい。老人と女と男が三人で車に乗る時間は、まるで老人の中に眠る数十年の時間と若者たちの浅い人生、さらにはこちらにいる私たち観客が過ごす時間が大きくねじれ、車の中の密室は一瞬にして遥かな時空へ広がるのだが、しかしそのねじれこそ加瀬亮演じる男が発狂する根本の原因なのだから、素直に楽しむことは出来ない。
この映画はまさしくその見えない部分、社会を生きる上で必要とされる身分の匿名性によって生まれるサスペンス映画なのだが、しかしそのサスペンス(つまり観客が宙づりに置かれ想像させられることで知らず知らずに楽しんでしまう部分)こそが加瀬亮演じる男の発狂を生んだ。それは観客の視線が発狂させたと言ってもいい。だとしたらそんな存在証明は必要ない。サスペンスを生んだ身分が人を苦しめる。
不意にフレームの彼方から石は投げられるが、そこにあるのは表象の限界などでもなく、私たちが生きるこの世界とはそういうものである。石はあらゆる場所に眠っており、常に私たちに投げられている。
そのことを自覚せよと脅し付けるようにキアロスタミはカメラを向ける。しかしその脅しは実に魅惑的でもある。その両面に気付いた私たち観客は、今後彼の映画をどのように観て行けばいいのだろう。映ってないものはないと開き直ることは許されるだろうか。女のエロい魅惑を振り切ってじいちゃん役に徹することは出来るか。