「映写技師は最後の映画製作者」なんて言葉を聞く事がある。それは映画製作そのものには関わっていない映画館のスタッフも、映画を届けるために作品を手配し、チケットを売り、上映環境を用意する。そしてその最後の仕事として映写技師は映画をスクリーンに届けるのだから「最後の映画製作者」なのだ、という意味である。
それを言うならば、映画は観客が観ない限りは完成しないのだから、観客こそが最後の映画製作者ではなかろうか。映画を観るという行為は決して受動的なだけではないはずである。作り手が映画を撮るのと同じようにして、観客も映画を作るように観ることが出来れば、作り手と同じ地平に立つことが出来るのではないか。少なくともそのようにして映画を観るのが観客と作り手のフェアな関係性ではないだろうか。
「星空の映画祭」という野外上映の映画祭がある。長野県の山奥、諏訪郡原村で開催されるこの映画祭は、会場となるスペースで1984年から2005年まで開催されていた野外上映を2010年から復活させたものである。JAXAも観測基地を置くほどに暗く空気の澄んだ山奥の会場にスクリーンを設置し映写環境を整えて、満天の星空の下で映画を観る。2010年は二週間で四作品を上映していたものが、今年は三週間で七作品を上映した。年々規模は大きくなり、観客からの期待も膨らんでいる。
野外上映とは本来映画館で観られるはずの映画を外に引っ張りだしたようなものである。当然、野外上映は映画館よりも鑑賞条件が厳しい。天候に左右されるのはもちろん、その空間を遮るものは何もないのだから、周囲の音が聴こえてくる。場合によっては光も入って来るだろう。本来映画は人工的に作られた暗闇の中で観られるように作られてきたし、作品そのものにとっては、芸術を鑑賞する空間として可能な限り作品以外のものを排除する方がいいだろう。しかし野外上映によって家なき子になった映画、帰る家を持たない映画の上には満天の星空が広がる。映写される光に虫が集まることもあるし、動物だってやってくるかもしれない。なんだかそう書いていると賑やかで面白いような気がしてくるのだが、場合によってはそれらが好まれるものではないのも事実であろう。
今年は『ニュー・シネマ・パラダイス』『ヒューゴの不思議な発明』『キツツキと雨』『ももへの手紙』『宇宙戦争』『サウダーヂ』それから私が観ることになった『ラスト・ワルツ』が上映された。これはザ・バンドの解散ライヴをマーティン・スコセッシが監督した作品である。恥ずかしながら、ザ・バンドのことも、それからこのライヴに出演するボブ・ディラン、マディ・ウォーターズ、ニール・ヤングなどといったレジェンドたちの音楽を通過してきていないので、特別個人的な興奮があるわけではないのだが、ライヴドキュメンタリーとして素晴らしいものであった。フィルム撮影でありながら何台ものカメラで撮影されているのだが、近頃のライヴ映像のようにカットが切られまくるわけではなく、演奏する姿をじっと映す。その様子を観ていると、演奏者にとって音を出すという作業が如何に困難なものかがよくわかる。その苦しみの中から弾かれた一音一音に、そこに映される身体の動きや空気の振動以上の何かが紛れ込んでいる。
野外上映は映画を観るのに最適な環境とは言いがたい。それは先に挙げたような外的な要因だけでなく、映写環境の設備としても言えることである。例えばスクリーンは、白くて光を反射するものであればなんでもいいというものではない。映画用のスクリーンは小さな穴が空いていてそこから音が通過するように出来ているのだが、それを用意してしまうと雨に打たれるとしみになる。音響も、映画館用のスピーカーは屋外に設置するように出来ておらず、PA用のスピーカーを使わねばならず、繊細な音は聴かせづらくなる。そのような状況がありながら、この星空の映画祭の映写環境は何一つ文句を述べる必要のない素晴らしいものであった。スクリーンも大きく、映写機が会場に常設されているだけあってレンズとスクリーンのサイズも合っていて、最大限大きく映し出されていたし、画面も明るく色もしっかりと出ている。そして何より音が素晴らしい。見ればスクリーンの上に吊り込まれているだけなのだが、そのスピーカーの鳴りと会場の森の環境とが見事に合っているからか、そこらの映画館にも負けない太い音がずっしりと響いていた。聴くところによると、客席の外側の森の中にスピーカーを吊り、劇場でいうところの壁からの音を再現しているという。映写室も覗かせてもらったが、映画を上映するために必要なものがあるだけのシンプルな設備だった。それでも気持ちのいい音が出せるのは、この映写環境をセッティングした地元の新星劇場の方の熟練の腕によるものだろう。映像も、音響も、どちらも本当に素晴らしい映写だった。
映画を観ていると、辺りから虫の声が聴こえてきた。スクリーンの方からも聴こえてくるが、カットが変わると鳴き止んで、映画の中の音だと気づいた。地元の人だろうか、イスを持ってきている人もいる。レジャーシートを広げて寝転がる人、ポットからコーヒーを淹れて飲む人。それぞれの楽しみ方で映画の時間を過ごしている。みんな寒さ対策で上着を持ってきていた。友達に虫除けスプレーをもらったけど、それでもときどき首周りや足がくすぐったくなることはあった。映写窓に虫が近づいて大変なんじゃないかと思っていたが、ときどき通り過ぎるくらいのものでそれほど問題にならなかったのは映写機からの光がかなりの熱を持っているからだろうか。スクリーンにカブトムシくらいの大きめの虫が止まっていたときは、ホクロか鼻くそみたいに見えた。
これらは普通の上映ではありえないことばかりだし、ここでの観客の工夫は通常であれば劇場側が用意するものであろう。虫がいれば駆除をするし、スクリーンや映写窓に虫がつくなんてありえないから場内を清潔に保つ。寒い人のためにブランケットが置かれている。そのために千円いくらもの料金を払っているようなものかもしれない。
『ラスト・ワルツ』を観ていると少しずつ雨が降りはじめた。しばらくはパラパラといった程度で、山の天気は変わりやすいと言うし、映画を観に来ているのだからとそれでも我慢して観ていたが、次第に雨が強くなってきたので木陰に入る事にした。周りからは「もう帰ろうか」なんて声まで聴こえてくるほどで実際に帰る人もちらほらと見かけたが、帰ってしまってはそこで映画が終わってしまうので、木陰からうまい具合に見れる場所を探した。そうやってみんな少しでもいい形で映画が見れるように動いていた。事前にカッパや傘を用意している人も居たし、映画祭のスタッフが簡易な屋根を張ってくれたり、雨など気にせず映画を見続ける人もいて、観客それぞれがそれぞれの判断のもとに映画と向き合っている。そうして能動的に参加できる映画の形がこの野外上映には感じられた。映画に対してこちら側からアプローチを仕掛けていくそのプロセスは、映画を作る作業とよく似ている。
映画を作るとき、あるシーンを成立させるために様々な準備がなされる。そしていざ撮影となったとき、「ヨーイ、スタート」と始まったところから、段取りが無事進行し何事もなく「カット」をかけることが出来ればいいが、多くの場合予期しないことが起こる。例えすべてのスタッフが完璧な仕事をしていても、意図しない音が入り込んだり、急に突風が吹いたりしてしまうものだ。
ここで映画を観るとき、観客は予め準備をしてきて、それでも予期せぬ事態に遭遇する。撮影の場合、もう一度撮り直す事だってできるだろうが、映画を観るということは例えNGであってもこちらからカットはかけられない。雨が降ったからと帰るのは撮影を中断するような最終手段だ。どんな悪条件が来ようとも、それでもなんとかオッケーと言えるものを観客として作り出す。
映画を撮影する中で、ワンカットが二時間もあるようなことはまずないだろうが、それでも10分ほどの長いカットを撮っていると、急に雨が降り出す事もあるだろう。そのとき予定外の雨をNGとすることも出来るだろうが、映画の中に取り込むことも不可能ではない。意図せず入り込んでしまった記号が映画の中で連鎖反応を起こしはじめる瞬間から撮影前には作り手が考えもしなかった映画の形が姿を見せる。それを見逃すまいと画面を見つめることから、新たな記号を発見することが「最後の映画製作者」としての観客の姿であるとするなら、ワンシーンワンカットを撮るようにして映画を観るということが可能なのではないか。
それを理念としてでなく、事実に遭遇する場として、この星空の映画祭は貴重な体験を観客に与える。
野外上映は映画館で映画を観るということの後から生まれたものではあるが、この星空の映画祭のような体験を映画に向き合う基本姿勢とするとき、映画鑑賞は決して受動的なことではないということを呼び起こす。ここを出発点にして日々を過ごすことは、まだ観ぬ世界を拡張し得る。もちろん、映画に於いても。