「FABRIC!は映写機のない映画館なのかもっ!?」

昨年末から<cine club FABRIC!>というイベントを企画している。

このイベントは現在劇場で上映されている映画、それもなるべくどこででも観ることができる作品をお題として、その作品について集まった人たちとともにざっくばらんにお喋りをするというものである。
しかしただの観客である者が集まっただけではなかなか話はうまく転がらない。なので各回MCとして廣瀬純さんと海老根剛さん、劇場分子の金子光亮さんをお招きして、ネミ屋という大阪福島にある飲み屋の二階でお酒やアテをつまみながら、平日の夜19:30からおよそ22時ごろまで、遅いときは残った方々と24時過ぎまで、一本の映画について深く掘り下げていく。

MCの皆さんは当日までにお題について考えを膨らませて来てくれている。しかしFABRIC!は人の話を聞きにくる場所ではない。従来のシネクラブ、あるいは映画講義とは違って、話者と聞き手という一方的な関係を崩したところから始められる。だからMCもそれぞれに論を立てながらも、同時にその場に集まった人たちの言葉に耳を傾けねばならず、また参加者もMCの言葉から自分が見たもの感じたもののイメージを膨らませて言葉にして返す。
当日になるまでどういう人が来てくれるか、何人集まるのかもわからない。少なくとも5人は参加者がいないとFABRIC!も盛り上がらないし、参加してくれた人に無言を貫かれるとただの映画講義になってしまうが、幸いなことにいまのところはそんなことにはなっていない。

これまで『猿の惑星:創世記』『タンタンの冒険』『ニューイヤーズ・イブ』『サウダーヂ』『J・エドガー』をお題にしてきた。
お題やMCによって進行の組み立てがまったく違う。その場に集まった人次第のイベントでもあるので、毎回何もかもが別物だ。

『サウダーヂ』をお題としたときは、シネヌーヴォでの上映スタートすぐであるにもかかわらずたくさんの人が集まってくれた。何名かは私たちの知人も混ざってはいたが、面識の無い方がほとんどであった。
そういう初対面の方々と映画について喋るには、『サウダーヂ』という映画はわかりやすい物語などない厄介な作品であるだけに、論点の軸が捉えづらい。それぞれの言葉を聴いていると、みんな観ているものが違うし、一人一人の人物の行動や言葉から受け取っているものも実に様々であった。それはそれでそれぞれが実に自由に映画を観ているということがよくわかって、『サウダーヂ』の捉え難さというよりも捉えどころの多様さがそうさせるのだろうということがよくわかった。しかしあくまでお喋りをする事を目的に集まっている場であるからには、何かしらの論点となる軸を捕まえたいという思いもある。

終盤の田我流の行為やラストカットについても意見がまったくバラバラであった。論点が見つかる気配などまったくない。ひとりのおじさんはついに自分が人を刺しそうになった話まで持ち出した。そんなこと、映画とどんな関係があるのか?そう思ったとき、空族がどうして田我流にナイフを持たせたのかがわかった気がした。
田我流が刺したのはデニスではなく、まさに今の私たちの目の前にある、複雑さで窒息寸前の世界そのものなのだろう。あそこで田我流は世界を映すスクリーンそのものに裂け目を入れたのだ。だからそこでは血が流れることなく、その穿たれた傷口からこちらの飽和した空気が逃げ出す。
田我流の一撃が世界に風穴を空ける。彼は私たちを代表してスクリーンに楔を打ち込んだ。

「フーヴァーはなぜラストに階段を上がりながらあのような台詞を発したのか」という海老根さんの問いを出発点にした『J・エドガー』の回は実にすばらしい時間だった。

フーヴァーこそが民主主義とはほど遠い振る舞いを続ける者であるにも関わらず、なぜ死の間際にあのような民主主義の理念を唱えるのか。あの言葉に私たちはあまりに大きなはてなマークを浮かべるしかない。
しかしそここそが廣瀬さんの展開する批評をみごとに言い表したシークエンスとなる。
フーヴァーとは黒人を差別し、赤狩りを進めた者である。差別する者であるにもかかわらず、同時に差別される側であるはずのホモセクシャルでもあった。
イーストウッドはエドガー・フーヴァーにカメラを向け、そうした矛盾を一所に抱え込む者を描くことによって自由というものを映し出そうとした。

自由とは、何にも影響を受けないことだと廣瀬さんは語る。原発事故があったから引っ越しをしたのは不自由であり、引っ越さなかったけど食べ物に気を使うというのも不自由である。それらはすべて原発の影響下にある。事故があったけど、これまでと何一つかわらず過ごしているというのは、原発事故については自由だということになる。
しかしフーヴァーは誰の目にも明らかなマザコンであり、母の影響を受けまくっている。彼の振る舞いはあくまでも母親の影響下での自由である。
その母親が死んだとき、このままでは彼は自由を失ってしまう。そこで彼が取る行動は、母親の衣服をまとい鏡の前で母親に言わされていた言葉を繰り返すというものだった。ここで彼は自らの中に母親を取り込むことによって真の自由を獲得するのである。母親が蔑視していた女装をしているにも関わらず、母親が求める男であろうとすることはあまりにも矛盾した振る舞いに映るが、このときのフーヴァーの行動や言葉に矛盾はないのだ。この「〜〜だからこうする」という因果関係から離れた状態こそが、海老根さんが提示した疑問の正体だった。

この自由を獲得しているからこそ、ラストのフーヴァーの遺体に毛布をかけるトルソンに感動する。フランケンシュタインのようなトルソンと、ぼってりした腹を横たえるフーヴァーの醜さから、私たちは嫌悪感どころか二人の愛に涙する。そこで私たちの眼は醜さの因果関係から解放されているのだ。

このようなことを皆で集まって話している。論はMCが立ててはいるが、それを軸にして喚起されるイメージを集まった私たちは言葉にすることによって、批評がゆるやかに輪郭を持ち始める。
FABRIC!とは映画を観るのと同じように映画のことを語らう場であり、記憶の中に眠っているイメージを呼び覚まし、その場限りの体験として身体に再注入する時間である。 廣瀬さんの言葉を借りるなら、私たち一人一人が映写機でありスクリーンであると言えるかもしれない。アタマの中に再生されるフィルムのイメージが言葉を通して投射される。それが他者の鼓膜に遮られ、また新たなイメージを再生する。
この関係性が持続する限り、FABRIC!は自由についての映画館となり得る。

次回FABRIC!は3月21日、お題は『TIME』だ。
今回は初めてゲストMCなし、DOOM!だけのイベントになる。この時間は、私たちにとっての最初の作品となるかもしれない。

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