「Retinaディスプレイでは見えない絶滅種 ハンター/労働者」


マンスリーDOOM!Feb.2012『iPhone』『ハンター』
「Retinaディスプレイでは見えない絶滅種 ハンター/労働者」長崎隼人

年末からiPhoneの電源ボタンが壊れていて、これまでだらだらと使い続けていたのだけど、ボタンが効かないだけならまだしも勝手にボタンが押されたことになっていきなり通話が切れるのでさすがに修理に出した方がいいかと思って調べていると、どうやら購入してから一年以内であれば無償で修理をしてくれるということだったのでさっそく代理店に持って行った。
修理となると代替機を受け取ってしばらくは不便な状態になるのではないか、また作業にどれほどの時間がかかるのかもわからず修理に持って行くことさえ億劫になっていた。しかも壊した事情が事情なのでごちゃごちゃなるとめんどくさいという思いもあった。
しかし実際に行ってみると、ボタンが壊れている旨を伝えてすぐに新しいものに取り替えることがあっさり決まった。何故壊れたのか、どういう症状なのかの詳しいやりとりなど一切なし。そしてほんの30分ほどのやりとりで新品のiPhoneが手に入ったのだった。
さらにそのiPhoneも、iTunesのバックアップから復元させると数時間前の状態にそっくりそのまま元に戻り、アプリも写真もメールもアドレスも設定も何もかも元どおりに戻った。音楽の同期だけは時間がかかったが、データの復元だけならものの数分で終わり、ここまで完全に元に戻るものかと驚くほどであった。しかも何ひとつ面倒なことなどなく。Appleの行き届いたアフターケアの賜物。Appleさいこー!素晴らしい!!というはなし。ではない。
このスムーズな進行により一人のユーザーの感覚としてはスムーズに全てが復旧できたことに本当に助けられた。このことについて何ひとつ文句はない。しかしこうして得たものの背後で一体何が失われているのだろうかと考えずにはおれないほど、過剰なまでに多くのものを受け取った気がしている。

ここであっさりと新しいiPhoneを手に入れることができたのは、要はAppleにとってはこうしたひとつひとつの事例にまっすぐ対処していては不効率でコストがかかるから、購入から一年以内のハードのトラブルは一律交換とするのが、修理に対応できるよう機械に詳しい人間を育ててそれぞれに応じた部品を用意するよりも安くつくということなのだろう。
もちろんiPhoneの端末がそんなに安いものではないはずなのだが、大量生産によるコスト減と世界中でのiPhoneの需要とのバランスでは、壊れたらとにかく交換とするほうが安くつくのだ。みんなが同じものを使えばそれだけ物事のラインは整う。画一化。何度も言うが、一人のユーザーとしてこれほど便利で快適なことはない。その交換がスムーズに進むように、iTunesでのバックアップも完璧に成されているという、完成されたシステムが整備されている。

このような大量生産の背後には中国などの低賃金労働力が活用されているというのはよく耳にする話である。そして企業はそこから莫大な利益をあげており、その労働力を搾取していると批判の声を聞くことがあるが、確かに企業はそこを出発点に大きな利益を得ているのだから搾取だと言えるかもしれないし、しかし労働者の方もそもそも仕事があるのかを考えたとき理不尽な対価しか得ていないとしてもそれをどこまで言い得るのかは不確かである。しかしもしそこに問題があるとしたら、それは現状を想像するしかない私たちにとっての他国の現状ではなく、労働者そのものが国内に見当たらないということではないか。
それはつまり先ほどの私の事例で言うなら修理を行わないということそのものが労働力の本当の搾取だと言うべきではないだろうか。
国内の労働力は高い。これは日本だけに限ったことではないようだ(http://japan.cnet.com/news/commentary/35013387/)。安い労働力を利用することの中に搾取があるのではなく(あるのかもしれないが)、高い労働力をそもそも利用しないことこそが最大の「労働力の搾取」なのだ。そしてその搾取は常に不可視であり、さらにそれらは「企業努力」として評価されるものである。

『ハンター』は主人公の傭兵らしき男が絶滅したとされるタスマニアタイガーの内臓や血液などの採取を命じられるところから映画が始まる。そしてタスマニアデビルの調査という名目でタスマニアに入り込み伐採の進む森へと案内される。そこでは自然破壊が問題視されており、「自然を守ろう」というスローガンが町中でも見られるのだが、その町の多くの者にとっては森林の伐採は生活手段であるため、そのスローガンを上書きする形で「”仕事を”守ろう」と記されている。環境保護を主張するヒッピーのような連中と地元で暮らす者たちの間には対立がある。
この二重のスローガンに主人公は複雑に挟まれることになる。彼は絶滅したとされる動物を見つけて殺そうとしているにも関わらず環境調査の名目で町に入っているために林業を営む者からは憎まれ(事実は彼らにとって有利なのに)、環境保護を訴える者からは怪しまれぬよう距離を取らねばならない。それは彼の状況だけに留まらず、彼自身もまた街や世話になっている家のことを知っていく過程でタスマニアタイガーを殺さなければならないことと、それをせねば失職してしまうことに悩まされる。
この「自然を守ろう」と「仕事を守ろう」という二重のスローガンは自然破壊や絶滅させることに対する精神的な生と、日々の仕事という肉体の生についての言葉である。
しかしそもそもこの二つは対立するものではなく、グローバリゼーションでの搾取の問題と同じくまるでそれらが対立しているかのように見せられているだけだ。そしてその対立が複雑な事態のために問題として成立しないのはそこでも「労働力の搾取」があるからに他ならない。

主人公の男にとって絶滅種を殺すことと仕事を失うことの間には「彼自身」を軸として産まれた彼にとっての対立がある。しかしそもそも自然を守ることと仕事を守ることは理念と生活の問いであり対立を成すためのフィールドが違うが、「身体」と「労働」を軸として彼の内に問いが生まれたように、「自然/仕事を守ろう」の場合、「森」での「仕事」を軸としたときに始めてこの森が抱える問題が明らかになる。
しかしエコ野郎はこの森にとっては部外者であり、彼らの仕事は自主的な運動であり賃金を得ることを目的とさえしていないのだが、ここにこそ「搾取された労働力」があり、そこにどのような問題があるのかを明らかにするためにはその「搾取された労働力」を明らかにしなければならない。
ではその搾取された労働力、不可視の労働はどこに「ある」と言えるのか。
それは見えなくなった労働力を立ち上げること、即ち仮定の労働をでっち上げることによって浮上する。そしてその仮定の労働はすでに可視化されている。その「見えているけど金にならない労働」とはここでのエコ野郎による無償の運動に他ならない。
グローバリゼーションでの問題点と同様に、国内と国外の対立によって複雑になった事態をすべて国内のこととして折り込むこと。そうして問題は対立する外側にあるものを内側に取り込んだときに浮上する。
あの森にとって部外者であったエコ野郎たちが仕事を手にし森への立ち位置を獲得した瞬間に対立はなくなった。それでも伐採をする労働者がエコ野郎を憎むのは仕事を奪われた憎悪からであり、その時はじめて労働者は彼らにとっての本当の問題が「仕事がない」ということだと気づき、特に何をするでもなく引き下がるのは、本当に「仕事を守る」ためには彼らこそがエコ野郎の役目をいち早く引き受けるべきだったと自覚したからだろう。ここにはそもそも「仕事」か「自然」を守ることの対立はなかったのだ。

そもそも部外者としてやってくる主人公の男が寝泊まりをする家は父親の不在によって生活が破綻しつつあった。そこで暮らす小さな子どもたちを支えるはずの母親は夫が行方不明になったことにより精神的に参っている。彼女はいつも寝たきりであり、男と顔を合わせることさえない。その中で男はあくまでもよそ者の枠に踏みとどまりながら、風呂を掃除し、子どもたちの相手をし、次第に父親の役回りを引き受けることになる。
この家に備えつけられている発電機は父親不在のため壊れたまま放置されている。夜はロウソクで過ごしていたが、いよいよパソコンの充電が切れて電気が必要になったとき、男はそれを直すために不慣れな発電機の修理をはじめる。最初はうまくいかないが、かつて父親の横で修理の様子を見ていたらしい子どもに手助けをしてもらい、なんとかほとんど修理が終わってスターターを回しだすのだがいっこうにエンジンは入らない。しかし子どもが排気口に手をかざした瞬間、発電機は動き出し、家の周りに飾られていた電球に明かりが灯りレコードプレーヤーは勝手に動き始め、スプリングスティーンの「I’m on fire」を合図にそれまで眠っていた母親までもが眼を覚まし、父親の不在によって止まっていた家族の時間があたかも何事もなかったかのように目の前で再現される。いくつもの「不可視の労働者」たちはジェネレーターの始動を合図に一斉に労働を始める。しかしこの男が父親ではないとわかったときには幻とともに音楽さえも止まってしまう。
このアクシデントで男は父親としての仮定の労働を不意に振舞ってしまうのだが、そのことによってこれまで見えていなかった母親が姿を現すと同時に、これまで眠っていた「母親の不在」という問題が明らかになる。
父の不在は解決出来ないが、母の不在は解決出来る。そのために男は母親を風呂に入れるが、しばらくするとその母親さえも不在となる。そのとき男は自ら進んで仮定の父親となることを選ぶ。しかし仮定の父親という無償の労働ではなく、部外者として父親を引き受けることになるのだが、ここに賃金が生まれないどころか男にとって経済的負担にしかならないのは、それが両親がいなくなった子どもにとっての問題を解決するための労働ではなく、男にとっての問題として子どもを発見したからに他ならない。子どもを引き受けたことによって解決したのは男にとっての問題であり、子どもは対価として日々の生活を手に入れるだろう。
だからか、今や一人の失業者となった主人公が子どもと抱き合うラストカットはあまりに淋しい。しかし彼らもまた絶滅した種と同じように世界の片隅を生き続け、世界にとってのよそ者であり続ける限り、見えない仕事は浮上する。
絶滅種という世界に存在しないはずの不可視の存在が、決して絶滅したと言い切れない限り絶滅していないと指を差し続ける。人に見えていないものを見えるようにすること。それを映画と言うなら、先のジェネレーターのシークエンスはあまりに映画的瞬間に満ちている。

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