「それでもゴミは棄てなければならない」

マンスリーDOOM!Jan.2012『恋の罪』
「それでもゴミは棄てなければならない」 長崎隼人

ここ最近の園子温の映画制作の手口はどれも一貫している。

まずコミュニケーションのすれ違う状況を用意した上で、その状況を打開するために感情を曝露させる。他人との愛のすれ違い、夫婦間のすれ違い、親子のすれ違い。そこにあるのはコミュニケーションの不在という現在の社会に対する視線だと言える。互いに満たしたい欲望を抱えながら、それを満たすことによって失くしてしまうかもしれない些細な幸福のために、本当に獲得したいものを失い続けるという本質的な不幸がここにはある。

おそらくこのような問題、というか臆病な感情は少なからず誰もが抱えている。だからこそ園子温の映画は人を惹きつけているのだろう。 
この状況を誰も望んではいない。だから園子温はそれを打破するべく人物の感情をむきだしにする。そのためにそれまで臆病だった人物に対して過剰なまでに現実離れしたシチュエーションを用意する。それまで彼らが過ごしていた見るも貧しい現実とはかけ離れた状況に人物を放り込むことによって、すれ違うはずだった意識を強引に衝突させる。
そこでは感情だけでなく、互いの秘密までもが曝露され、そこで起こる大きな衝突によって一見すると問題は解決されたかに見えなくもないが、実はさらに厄介な問題が提出されて過去の問題が霞んでしまっているだけであり、すれ違いを引き起こした問題の本質を解決することはさらに難しくなっている。

園子温の想像力の働き方も常に変わらない。『愛のむきだし』は園子温の知人を主人公のベースにしながら彼の想像力によって構築された世界だそうだ。『冷たい熱帯魚』や『恋の罪』では実際に起こった事件を題材に扱っている。しかしそこには『愛のむきだし』と同じモチーフが常に映し出され、人物の身振りも園映画での決められた役割を演じ続ける。自らの頭にあるイメージに現実を当てはめる方法である。
それはロケーションに特に顕著であり、白く明るい潔癖な空間ではコミュニケーションはすれ違い、暗く汚れた廃墟では、内面は血液や臓器とともに曝露される。
園子温の映画ではこれらの文脈を踏まえた上で、ラストに大きなカタルシスを迎えることになる。『愛のむきだし』では潔癖な空間の中で主人公の青年の感情はむきだしになりながらもどこまでもすれ違い、『冷たい熱帯魚』では暗い山奥の廃墟で肉体を内臓まで露にしながらも感情が合わさることはない。ここではロケーションの変更はあれど映画の骨格は変わらない。これが園子温がエモーションを引き起こす手口である。
しかし『恋の罪』 に於いては『愛のむきだし』から『冷たい熱帯魚』の間に見られた手順の変更さえなく、自らの映画の焼き直しを演じるだけである。

そしておそらく、これらのことに対して園子温は自覚的である。
それは大きな衝突を起こしてもディスコミュニケーションは解決しないということも、自らの映画の構造を焼き直しているということももちろん、感情の曝露が引き起こすカタルシスが観客に喜ばれるということも。

だからすれ違いを無理矢理衝突させたことによって生じた新たな問題、というよりそもそものディスコミュニケーションからすると些細なものでしかなかったと言える殺しや人生の破滅に対して責任は取らない。そもそも個人が抱えている欲望がそうさせたのだと言わんばかりに放置する。
それはまさしく『恋の罪』でのエンドロール、ゴミを持って走る女がゴミ収集車を追いかけ続け、殺人現場に辿り着いてしまったときに呟かれる「わからん」というセリフに現れている。確かにあの様な状況に放置されては一人の女性として「わからん」という言葉が口を吐いて出ることはあるかもしれない。しかし何かを創る者として、これまで散々あらゆる人間を非日常に放り込んでおきながら急に現実的な方向に舵を切って幕を閉じるという方法で良いのだろうか。わかろうとわかるまいと、観客が納得出来るかどうかではなく問いを突きつけるほどの明確な態度を、この作品に関わるすべての作り手を代表して示さなければならないのではないか。それが映画監督としての責任であり勇敢な態度であって、作品についての批判や批評はそのあとからしか産まれ得ない。

自分の欲望の根元にある感情を裏切ってまで些細な日常を生きることが良いだなんて誰も思っていない。でも欲望をむきだしにしてしまってはその些細な時間が台無しになることがわかっているから誰も感情を露にしないのだ。だからみんな苦しんでいる。打開したいと願っている。その解決の糸口をこれらの作品から見出せるのではと期待するところもあるだろう。
そのことを園子温自身自覚していながら、それでもこれは映画なんだし人が死ぬわけじゃないんだからいいじゃないの?客も入ってるわけだし。という開き直りの態度によって映画は展開され、いつしか映画館は園子温にとっての人体実験場となる。
私たちはこの実験がいつか私たちの日常を豊かにすると信じてスクリーンの向こうの犠牲者に心を閉ざす。これは映画なんだし、必要悪だ。仕方ない。そういう態度で。

この開き直りの態度を私たちはすでによく知っている。それは福島第一原子力発電所の事故以降、繰り返し映し出された東京電力と政府の態度である。
園子温は新作『ヒミズ』で震災以降の世界、つまり放射能に汚染されたあとの世界を映しているらしい。そうして現実の事件はネタとなり園子温の想像力の内部に回収される。
おそらく、今度の作品でもこれまでと同じ方法論で映画を組み立てているだろう。 
果たしてどのようにして開き直りの態度に着地をするのか。その手口を決して見逃してはならない。

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