批評3

review

またしばらくぶりの日記になってしまった。
しばらく前からこの日記は書いていたのだが。
これでしばらく続けて書いてきたものはおしまいです。先の日記と続けてどうぞ。
批評
批評2


先日の記事にも書いたとおり、ゴダールの過去作がHDリマスターされて劇場で上映された。
ここ数年の間にリマスターされたものはそれなりに見るに耐える品質になってきている。ただ、やはりあくまでもフィルムの補完的な存在を抜けないというのも正直なところある。
今回のゴダールの特集を見ていても、これまでのゴダールの映画を見るときのスクリーンに眼を奪われるような感覚はやってこなかった。ゴダールの映画って映画の中でも超がつくくらいに高尚な、ハイコンテクストなものって感じがしてしまうけど、でもそれと同じくらいに画と音をどう作るかが大きくて、だからこそ『ソシアリスム』の携帯で撮ったようなギザギザの画と音が、普通に見たら苦痛でしかないはずなのに驚きを覚えるのだろう。
記憶の中にあるゴダールの映画とのズレは拭えず、どうにもお勉強間だけが強く残った。
しばらく前、空族と簡単に映画を作れるようになった状況について話していたとき、最近見たいくつかの邦画の小規模映画を取り上げながら、どれも画面も音も劇場で観るに耐えうるものに仕上がっていないという話をした。少しだけ具体的に言うなら、ナレーションを吹き込まれているその音でさえ、まともな位相で音が作られていない。もちろんそれは狙いなどではなく、それまでの音もろくに音の芯を捉えられていないようなものであった。それに比べて『Furusato2009』は簡単な機材と簡単な撮影方法でありながら、ラーメン屋のおっちゃんの声にしろマクドでUFOの話をする兄ちゃんにしろ音は確実に捉えられていたし、画に対しても不満を感じることはなかった。こうした違いは映画を観ていると頻繁に感じるが、しかしこの差異はどこから生まれるのだろう。あり得るとしたら、作り手の中に確かな「音」や「画」に対する考え、価値観が形成されないままカメラが向けられているのではないかと思えた。その価値観は、これまで映画とどのようにして過ごしてきたかによって形作られていくものであろう。その時間があまりに薄い。
そこでの話は技術的なことはもちろん、瞬間瞬間が映画になっていないという話であった。かつてであれば、映画を作るということのハードルが高かったぶんだけ画も音もそれなりのものが仕上がって、悪い意味でごまかしがきいていた。だからこれだけ簡単に作れてしまう分だけ、それが本物なのか、そうじゃないのかが一目でわかってしまうような恐ろしい時代にいるんだねと、そんな話をした。
あの人たちの技術もどんなもんだろうかと思わないでもないが、しかし実際にスクリーンに映されたときには毎度驚かされる。
『フラッシュバック・メモリーズ3D』は先日の日記に書いたように、コンセプトの幅を絞ることで映画の面白さをわかりやすく伝えるという側面はあるかもしれない。しかしそこでも書いたように映画とは言葉で追いつけるようなものであるはずがない。僕らが頭で考えたことなんかでは近づけない何かがそこにある。だからわざわざ映画館へ行かねばならないのだろう。どれだけ世界がネットワークで、システムで、言語で覆い尽くされても、それでも言葉がたどり着けない深い闇を見つける。そのために劇場へと赴く行為を映画鑑賞と言うのではないか。
だからそんなたかが言葉の速度、音の速度かネットワークの速度程度で映画の光に追いつけるという思い上がりを退けるために、「それはまがい物だ」とモグラたたきのように愚作を延々と叩き続けることが、もしかしたら現代でのもっとも誠実な批評のあり方なのかもしれない、なんて思わないでもないが、しかしそれはとてもつまらない。。。
話を戻す。
映画を観ていて、魂を揺さぶられる瞬間がときどきある。それは別にデジタルだろうと関係なくあるはずだけど、そこに辿り着くまでのコストがどう考えても高くなっているように思える。
3Dでは無駄な金を払い、無駄な労働をしている。そこまでしないと面白いと思えない人がいるのかもしれない。無駄に金と時間を費やす暇があるならそれでいいのかもしれない。僕にはそんな金も時間もない。
デジタルによって映画館で観れる映画の裾野は確実に広がった。それによって出会うことが出来るようになった映画もあるだろうが、おそらくそのような幸福な出会い以上にひどいものもスクリーンに並ぶようになっている。
誰かが良いと思う映画に導くための批評も、ウェブによって特権的な力は失われていっている。もちろんこれだって悪いことばかりではない。僕らのような小さな存在の言葉でさえも誰の眼にも触れることが出来るし、書き手として、作り手として参加することができるウェブは、人々を創作へと歩ませる。その文化的な価値はとても大きい。
僕がここで言いたいのはどういうことが可能になったのか、ビジョンがあるのかということではない。いろんなことが出来るようになった。これからますます裾野は広がるだろう。その可能性と同じくらいに、もっといろんなことをやらないといけなくなって、もっといろんなことを選択しないといけなくなる。それは作り手だけでなく、受け手も同じだ。
デジタルによって、ゴダールの過去作が観れた。あるいはマイナーな作家の作品でさえ上映される。それは本当に幸せなことなのだろうか?ごく稀に、幸せな遭遇はある。それは確かにある。しかしその遭遇の外で、ぐるぐるぐるぐるといつまでもどこにも辿り着かないまま本質が放つ波の円周を漂い、ぽこぽことモグラたたきをしながらマグレのように不意に深いところに入り込む。
前の日記でズレがなくなっていると書いたが、むしろズレがあることに気がつかないほど大きくなっているのかもしれない。
そのズレの大きさを実感して何をしても何もならないということの前に立ち尽くしてしまうほどには、いろいろと見えてきた。
だからひとまず今は陸に上がって、その波を傍観しているような状況にある。
飛び込むべきときが来たら飛び込むが、ついぞその時が来なければそれまでということ。
だらだらと書いてきたけど、ここしばらくの状況はこういう感じ。
そういうこともあって、DOOM!のHPをまったく違うものに変えようと思う。
DOOM!のHPというものでもないような何かまったく別のものになると思います。
ではまた。

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