2016年2月


2/29

仕事と確定申告を。プリンターのインク、カートリッジに穴を空ける詰め替え式のを使ってみてるんだけどもなんかいまいちうまくいかない。インク高いから純正品なんか買いたくないんだけれど。

 

2/28

読売テレビの漫才新人賞を取ったコマンダンテというコンビがとても面白かった。決勝を6組で争って、そこでの上位二組が最終決勝をするというもので、この様な優勝者の決め方は以前からよくあるけど、二回漫才をするということのつまらなさというか野暮ったさというかダサさみたいなものを感じないでもなかったのだけど、このコマンダンテは一回目のネタを生かしてより複雑なネタをやってきた。YouTubeなんかで見れるなら2位になったミキの漫才と一緒に見てみたらいいんじゃないでしょうか。この二組は頭抜けてめっちゃおもろかった。

 

2/27

友人からいただいた抹茶のシフォンケーキとレモンとホワイトチョコレートのお菓子がとんでもなくうまかった。

 

2/26

ここ最近、老人や痴呆の人が起こす事故や今回の急病人の事故が多いように見えるけれど、こうした起こした人にもどうしようもない事故、事故を起こした相手に不注意だと言って怒ることもできないような事故というのはただただ悲しみだけが積み重なってしまう。その悲しみを力にして車の設計に新たな技術が開発されて同じようなことが起こらないようになるなら何よりだし、実際運転者の状態異常を感知するようなシステムが開発されようとしているらしいけれどまだまだ実用には時間がかかりそうで、同じようなことをまだしばらくは繰り返さないといけないのだとしたら、僕らはこの悲しみに麻痺していくしかないのだろうか。

 

2/25

仕事が忙しいモードに入ってしまった。そのくせ梅田の事故に見入ってしまった。規制が解除されたあとの現場を中継していて、さっきまで血だまりがあったであろう濡れたところとかもみんな平気で歩いてた。。。

 

2/24

stillichimiyaのツアードキュメンタリー『生でどう。』の爆音上映に行った。空族の新作『バンコクナイツ』の新しい特報が流れる予定だったらしいんだけど結局間に合わなかったらしくそのことを樋口さんが詫びていて、ぐだぐだの人がぐだぐだの人たちのことを代わりに詫びるというなんだかよくわからない時間が流れていたのだけれど、本編も自由な連中の遊びの時間がひたすら流れていて、まぁそら間に合わんわということがよくわかった。stillichimiyaという遊びも空族の遊びもどちらもかっこ良くて面白い。

 

2/23

『オデッセイ』を観た。原作途中まで読んだ半端な状態で行ってしまったけれど、映画だから見えて来る火星の嵐の厳しさや主人公の体つきの変化の具体性からは孤独がにじんでよかった。問題が出て来たら解決法を探す、そしてまた問題が出て来たら次の手を考える、ということを繰り返す話だけどその辺りは映画では少し薄まってひたすら前進し続けるだけの映画になっていたのが少し物足らなかったか。

 

2/22

仕事モード。

 

2/21

朝、牧野さん嶺さんを見送って、仕事やら調べ物を。
久しぶりにフィギュアスケートを見た。宮原さんも宇野くんもまたよくなってた。ボーヤン・ジンは点数高すぎたように思う。ジャンプは高くてすごいけど、ジャンプだけじゃねえか!とは口が裂けても言いませんが。。。

 

2/20

牧野さん嶺さんはうちに泊まったので、朝はほっこりとごはんを食べる。昼前に上田さんが来て、みんなでヌーヴォへ。昨日の仕込みがあるからだいぶ楽な気持ちで準備ができた。この気持ちにゆとりがあるということの幸せ! いつも上映のときはやること多くて焦るけど、まったくそんなことなく進めることが出来た。すべては田中さんのおかげ。
ベン・ラッセルの「TRYPPS」シリーズ、今回はオリジナルフォーマットで上映することができたけど、まず16mmと35mmとデジタルを上映できる環境が限られる。とはいえフォーマットだけなら日本にいくつか上映できる劇場はあるだろうし、16mmならいざとなればレンタルでもなんとかなるかもしれないけど、そういうことよりなにより難しいのは今回のようなイベント上映を受け入れてくれる劇場が少ないということ。映画は基本的に一週間単位の興行という形が基本だから。そういうこともあって今回ベンさんがわざわざフィルムを日本に持って来てくれたけど、このフィルムを上映できるのはヌーヴォのみでもうすぐしたら返送することに。もしかしたら日本で最初で最後のTRYPPS上映になったかもしれない。
今回はじめてまとめて観ることの出来た葉山嶺さんの作品は動物や植物というモチーフが多く現れながら、その植物が造花であったりジオラマとして作られた家、何かの図鑑らしきものの写真を再撮影したもの、極端なアップで取られた鳥、以前観た「INITIAL VAPOR」もジオラマで作られた洞窟のような空間が映されていたし、「EMBLEM」も鳥が繰り返されるループの運動の中で生き物の生き物らしさ、あるいは人工物の人工物らしさを虚勢された映像が映し出されていたように思う。「still life composition ‘an accompaniment for life’」にたくさんの造花が出て来たけど、育てているストレリチアレギネしかわからなかった。極楽鳥花。

 

2/19

夜まで一通り作業をして、営業の終わったヌーヴォへ行って明日の上映の仕込みを。
映写の田中さんがたまたまうちの家の方面だったということで、送ってくれるので深夜に仕込みをすることができたのだけど、それがなかったら明日の上映は大変なことになっていた。たぶん間に合わなかった。

 

2/18

日が近づいたのであらためて。2/20にシネ・ヌーヴォで「plus screening 2016」のイベントがあります。
詳しくはこちらを。http://plusscreening.org/873

 

2/17

髪を切りに行った。行き帰りの電車でカズオ・イシグロの『日の名残り』を読んで、あと少しで読み終わりそうだったので近所のミスドでドーナツを食べながら読み終えた。家に帰ると仕事だったり仕事のための勉強だったりであまりゆっくりと本を読めない。日頃、仕事をしているとき以外はほとんどが次の仕事に向けての学習に時間を割いているが、それがあるからといって具体的に金になるわけでもない。だから本を読もうとすれば読める。それでも学習に時間を割いてしまうのは、ひとつは不安というものもあるだろうが、仕事の質を上げたいというのが大きい。ほとんどが独学だから勉強をし続けることでしか質を上げることができない。もちろんプログラミングの才能がある、なんてことは当然ないのでひたすらやるしかない。
『日の名残り』は第一次世界大戦ごろからイギリスの非常に立派なホールで執事長を勤めていた男の回想を軸に話が展開する。そのホールは戦後に持ち主をかえアメリカ人の持ち物になっているが、男は執事を続けている。持ち主が変わってから、ホールを運営するのが厳しくなっているらしい。簡単に言えば予算を切り詰められているような状態と言っていいだろうか。切り詰められている中でなんとか運営でいるプランを立てていたが、その負担のしわ寄せがいつか堰を切ってしまうと判断をした男は、雇人を増やすことを判断し、同時に昔ホールで働いていた召使いの女から手紙が届き、そこにはその女が夫と別れることになるかもしれないというようなことが書かれており、その手紙を読む限りから彼女はホールの仕事に戻りたがっているのではないかと推測し、真意を確認するためにその女性のもとへと会いに行く。その数日間の旅行の中で、かつての華やかだった時代のホールや執事としての仕事の様子などが回想される。
今の自分からすると、この主人公の男はあまりに仕事に打ち込みすぎている。実際彼は執事の仕事という性質上、生活の場が仕事場となっていて、2週間に2日ほどしか休みがないようだ。仕えている主人は国際的な政治の場で活躍する立派な人の様だから、もらえるものはしっかりもらえているのかもしれないが、それにしても仕事漬け。しかしそれが僕のようなぐうたらな人間にさえも「羨ましい」と思えるほどの打ち込み用で、それに合わせてしっかりと結果がついてきているのだから誇らしいものだろうと想像出来る。
ここで執事の男から語られる「良き仕事」の数々を読んでいるだけでもとても気持ちが良く、またそれらと同時に語られる執事としての「品格」、人としての「自由」、イギリスという歴史ある国が持つ「偉大さ」に触れることから、主人公や彼の仕事、彼が仕えている主人の姿が豊かなディテールとともに厚みを持って読めてくる。
そのような時間を過ごす中で、物語の終盤にその「良き仕事」も「品格」も「自由」も「偉大さ」も無に返すような事実にぶつかってしまう。読後、その衝突による大きな困惑の中から未だ離れられずにいる。
個人としての自由を捨ててまで仕事に専念することの尊さと、その結果誰もが幸福を感じる瞬間に辿り着くということはあるだろうし、誰も傷つかない。しかし尊さから遠いところへ辿り着いてしまうという不幸は起こりえる。
自分の仕事がこの主人公の仕事ほどのものであるとは言わないが、良い仕事とはなんであろうかということを改めて考える。
全ての発明は悪い発明、なのかもしれない。そのことを主人公の仕事とともに覚えておく。

 

2/16

また寒くなったので鍋を。鍋は寒いときこそうまい。

 

2/15

『ブラック・スキャンダル』を観たんだけども、映画の焦点がどうにも見えてこなかった。描かれる悪があまりに陳腐なものにしか思えず、FBIの男が少しずつずぶずぶと悪の方へとはまり込んで行く話にしては最初から信念があったようには思えないし、ジョニー・デップが生まれつきの犯罪者と言われているのもそれ以上でも以下でもなく、『悪の法則』みたいな底知れない悪のおそろしさみたいなものは感じなかった。いったい何を描きたかった映画だったんだろうか。そのことを考えてみたくなるほどには面白さにかける映画だった。とりあえず会話のシーンでアップショットを撮りすぎてるのはいかん。

 

2/14

イモトアヤコってカメラの前で限りなく自由になれる希有なタレントだと思う。

 

2/13

仕事。

 

2/12

昨日買いに行った坂越の牡蠣屋で一緒に売っていたあさりを使ってシンプルなボンゴレビアンコを作ったらいくらでも食える味にまとまって旨かった。あさりを酒蒸しして出た汁にパセリを入れて麺と合わせるだけのシンプルなもの。塩はあさりの塩気のみ。また食いたい。

 

2/11

昨年に引き続き、今年も坂越まで牡蠣を買いに行ってたらふく食べる会を開いた。今年は4人の会で殻つきを5kg購入。あっという間に無くなった。「海水を食べているようだ」というよくわからない名言まで出たので良い会だったのだと思う。

 

2/10

台湾土産でいただいているお茶があまりにうまいので台湾での地震の募金をしておいた。
http://donation.yahoo.co.jp/detail/1630020/

 

2/9

今までは実用的ではないという理由であまり関心の無かったHTML5とCSS3をがっつりやらないといけなくなった。学習と実践を繰り返しているので制作の手法が常に変わり続けているけど、多くの場合はこうやって常に変わり続けるのが困難なのだから、これでいいのだということにしておく。

 

2/8

『パディントン』を観た。パディントンは人間みたいな暮らしをする熊なんだけどその設定が案外微妙で、テッドみたいに会話や習慣が限りなく人間と同じような存在ではなく、とはいえ野性の少年的な動物的存在でもなく、その中間というところを掴むのが難しくもありながら、でもその中間にある存在だからこそ、まるでペットにしていた動物が急に知性を手にしたらこんなリアクションするんじゃないかと思えるような身振りを見るのがなかなか面白かった。テッドよりは笑えた。

 

2/7

牛肉の赤ワイン煮を作った。

 

2/6

久しぶりにシチューを作った。

 

2/5

『ザ・ウォーク』を3Dで。自分にとっては9.11によって無くなった場所として知っているニューヨークの世界貿易センタービルがいかにして愛される存在になったのかが話の軸の映画だった。綱渡りは死ではなく生の時間だという主人公の観念が、WTCに渡されたワイヤーの上に立った時にはっきりと映され、誰もがそれを見上げる。そしてそれは死の時間としてもう一度繰り返されることになるのだが、その描かれない時間がそこには同時に映されていて、生と死の時間を同時に見ることになる。素晴らしい作品だった。

 

2/4

ようやく『ハッピーアワー』を見た。冒頭から言葉で散々言われていたことではあるが、ある一つの考えが言葉や行動に現れたとき、その言葉がその人の思いや意図とは別の形でしか相手に伝わらないということは確かにある。だから人に伝えるときには相手によって言葉を選ばないと同じ出来事や同じ気持ちであろうとも意図するところに伝わらないということはよくあるし、場合によってはそのような選択をしたとしても伝わらないこともある。だからそもそもある一つの出来事や考えというものは出発点は一つであろうと、そこで産まれた瞬間に答えが無数に分裂しているものなのかもしれない。
『ハッピーアワー』はそのような瞬間にあふれている。第二部ではそのことが出来事としてそのまま現れる。これも言葉で散々語られることであるからわざわざここで書くまでもないだろうから簡単に書くが、二つの妊娠がまったく様々な結果を辿る。一つは公務員の夫を持つサクラコの中学生の息子が彼女に妊娠をさせてしまうという形で現れ、それは堕胎という方向を辿る。もう一つはジュンの妊娠。相手が誰なのかはっきりとはしないが、おそらくこちらは無事出産されることだろう。とても簡単にまとめてしまったが、しかしこの二つの妊娠がこの映画の大きな軸であることは間違いない。そしてまたそれほど簡単にまとめられるものでもない。
ジュンが離婚しようとしていた旦那は卵子が胚になって少しずつ手や足などの人の身体を形成して行く過程を研究していたと言っていたが、それは夫自身も言っていたように究極には「遺伝子で決まっているから」一つの細胞が分裂する過程で見事に手は手として肩の辺りから伸びてくるのかもしれないが、しかしその研究をする彼はそこに違う気配を、もっと言えば遺伝子で決まっているからというだけではない何かを直感し研究している。もちろんそれは大いなる勘違いかもしれないが、しかしそれを勘違いだと言い切れない感覚をこの映画を通して得ていることも確かである。サクラコの息子が妊娠させた相手方に謝罪をしに行った帰り、サクラコの義母はこの日のことを少し振り返りながら「よくぞうちの孫をたぶらかせてくれたな、と言ってたらどうなったろうね。」とサクラコへ言う。確かに不思議なことではあるが、このような子どもたちの妊娠について、男の側が妊娠を「させた」という図式がいつのまにか出来上がっている。それこそ社会的規範として、社会という遺伝子に組み込まれるようにして図式が出来上がり、もちろんそこから逸れて「よくぞうちの息子を!」と言うことも出来るわけだが、それはモンスターペアレント的な存在として受け取られるだろう。が、もちろん他人にどう思われようとそうしたっていい。しかし何故そうしない(できない)のだろうか、という問いにより、サクラコは少しずつ新しいサクラコへと変化していく。というように、何故ハラワタを聞かなかったのか、あるいは何故ジュンは必死に離婚したがるのかという「問い」を与えられることによって起こる変化とそれによる結果としての行動の連関、それをジュンの夫は「幸せになる方法」と言っていたように思う。そしてそれが「ハッピーアワー」なのかもしれない。
というのがおおまかなこの映画への雑感であるけれど、そういうことよりも気になったのは、この映画に出て来る人たちは男も女も少しコミュニケーションが不足していて、だからこそその小さな不足がいつの間にか積もり積もって大きく衝突することになってしまい、しかしその衝突によって新たな変化や新たな問いが産まれて行くし、少し極端に言えばその衝突があるから好転もあるというように映画は語っていたと思うのだが、離婚の危機を迎えないと幸せな時間に辿り着かないというようなことではなく、日々の些細なやりとりや言葉掛けの機微によって幸せな時間へと導いて行く、そういう人間が出てこないことに居心地の悪さを感じていた。もっと言えば幸せな時間というものを具体的なものとしてイメージしている人間がいないということだろうか。危機的状況になってからその危機よりもマシな時間へと進んでいるだけで、そういえば「進むも地獄、戻るも地獄、同じ地獄なら進む方がマシ」みたいな台詞があったが、地獄にならないと先へ進めない不幸を見させられた不満がある。そのことだけが、少しだけ世界を小さく描いているように思えてしまった。

 

2/3

清原、たぶん薬物依存症なんだろうなぁ。あのごりごりの見た目で覚せい剤やってたらなんかそのまんま過ぎて(ゲスの極み乙女がゲスの極みだったみたいな)悲しい。清原のことはこれっぽっちも好きじゃないけど弱い人だったんだと思えて同情してしまう。ここから立ち直れることを祈る。

 

2/2

甘利大臣の辞任が潔いとかそんなこと絶対ないからな!あの会見では自分に都合のいいことしか言ってないだろ!!!

 

2/1

『スター・ウォーズ フォースの覚醒』を観にエキスポシティに行ってみた。わざわざエキスポシティまで行ったのはもちろんIMAXを見るため。IMAXはくっそでかいし3Dの質もいいしでよかったんだけど、久しぶりの3Dだからかシャッター式の3D眼鏡だからかわからないがとんでもない頭痛に見舞われ途中からまともに見ていられなかったが、それでも面白くなかったことはわかった。やっぱり物語が雑。このあと『ザ・ウォーク』を見ようと思っていたのだけど、本当に辛いので断念。エキスポシティをぶらぶらした。ららぽーとはヒルナンデス感にあふれていた。

 

◇◇◇ 2月までのあれこれ ◇◇◇

FM DOOM ! vol.37 トラックリスト公開してます
牧野貴・葉山嶺・ベン・ラッセルの特集上映が2/20にシネ・ヌーヴォで行われます。