ちょっとそこまで -2012 秋-(後編)

review

さてさて、後半。
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最終興行中のシアターN渋谷で『カリフォルニア・ドールズ』を観たあと、そのまま『Playback』の面々と合流。
映画は10日から始まったが、こうして会ったのはスタートの三日前。
三宅さんをはじめ、みんなリラックスした表情で、興行が始まる直前とは思えないほど落ち着いていた。
映画の宣伝、興行となると、映画に多くのお金がかかっていることなどから、とにかく一人でも多くの人を集めなければと躍起になる。もちろん純粋に一人でも多くの人に見てもらいたいというのもある。
そのために地道なチラシの配布から、マスコミへの対応などもあるし、もっと言えばタイトルをいかにも人の集まりそうなものに改変したり、予告編で本編のおいしいシーンをほとんど見せるなど、やれることはいくらでもある。実際にそうしたことをやっている宣伝も目にするし、興行の途中で何かしらの割引を出して値段を下げるという手段まであったりする。これらの判断は宣伝をする側の倫理観による。このようにして敷居を下げれば必ず入るということでもないのが難しいところだが、しかし硬派にやっても入る保証などふたを開けるまでは誰にもわからない。不安は募る。
それぞれのやり方で作品にあったやり方をすればそれでいいと思うが、なかなかそうもいかず、同じような歯車に乗って流通されることがほとんどであるように思う。
よく「やれることは最大限やってとにかくまずは観てもらう。作品の善し悪しはお客さんの判断だから。」なんて言葉を耳にするが、個人的にはどうもこの言葉に乗れない。もちろん作品の善し悪しはお客がそれぞれ考えればいいことだが、観てもらうために映画を安売りするような宣伝をしては、結果としてお客の判断も鈍るのではないかと思うからだ。
無論、このような言葉を使う人が映画を安売りしているつもりなどはないのだろうが、端から見ていて、足下が見えてしまうようなやり方は、作品の質もどうなのだろうと思ってしまう。
というのも、映画の作り手が自らの手で上映まで出来てしまうということは、人に見せるところまで作り手のコントロール下にあるということだ。上映や宣伝まで作品の価値がついてまわるのはとても厄介でめんどくさいことだと思うが、自主であるということ、独立しているということは、そこにまで責任がついてまわる。
しかしこれは作品にとって必ずしも不幸なことではないように思う。
『Playback』チームが製作から宣伝までトータルにやっていることは、少し大げさに聴こえるかもしれないが、映画にふたたび風格を与えるような作業なのではないだろうか。それも、かつて映画が持っていたはずの風格を取り戻すということではなく、今の時代に見合った形でそれをゼロから立ち上げるような。もちろんそれは「これはすごい映画なのだ」という権威とは無縁の形で。
「カッコいいな」と直感的に感じるようなものがほとんど見当たらない映画の状況で、へーこらと自らを安売りすることのない堂々とした佇まいや、ちょっとした身振りの大きさ、その作品の周りに居る人間の器がまた新たに人を巻き込む。それが映画に風格を与え、人を引きつけるのではないだろうか。
『Playback』ではそれらがハッタリではなく、その風格に見合っただけの作品に仕上がっているのだから尚更面白いと思っている。

翌日には去年の新人王の空族、富田さんと久しぶりに会った。
空族も『Playback』と一緒にオールナイトをやったり、早稲田のトーク中に三宅さんを舞台に上げたりと、何かと彼らをフックアップしている。上映素材をフィルムにしたこともあって立場的にも兄貴分のような位置に居るから、というのもあるかもしれないが、それは応援という遠慮がちな立場を越えて、もっと具体的に、空族が昨年かっさらった映画の話題や若手の烙印をそのまま『Playback』に預けようとしているように思う。今年の日本映画の代表の席を譲るような身振りというか。
富田さんと『Playback』の話をしばらくする中で「もう若手の顔できないですね」って言ったら少しうれしそうにしてた。

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