Tony


前回の日記に載せたアルパカの写真が受けなくてこの一週間へこんでいた。
人の笑いの感覚ってのはわからないもので、このくらい突っ込んでしまうと受けないのなら、笑いをとりたいという欲望は薄まっていく。
ある人には「あの写真ほんまなん?」と言われたりして。ほんとか嘘かなんてここでの本質とは何も関係ないはずなのだが。
ボケの説明をしないといけないような丁寧なギャグをやれと言われてまでボケ続けるつもりはないが、そうするとただのボケ野郎になってしまうというのも癪であり。笑いの民度をあげるのが先か、ボケるのが先か、というところか。


そうこうしているうちに民度は上がるのか下がるのか、とにかく時間だけが過ぎていってテクノロジーは進んでいく。
その時間の隙間でトニー・スコットが亡くなった。
彼はいつまでもフィルムで映画を撮り続けていた。
誰かがやらなければ道が閉ざされる。そこを切り開く映画を撮り続けて来た人でもあったから、これからもフィルムで撮るのだろうかという期待もあったし、それ以上に彼がどのようにしてこれからの時代を映画とともに生きていくのかに関心があった。
もちろん、映画そのものも素晴らしいものであった。
映画を見始めたのが遅く、ビデオなんかも見ないので彼の過去の作品はほとんど何も知らないのだが、その中ではじめて観た『デジャブ』は、少し前の時間の映像が現在に影響を与えるという映画みたいな映画で、その少し前の時間が私たちに影響を与えることはもちろん、こちらの視線もその映像へ影響を及ぼすという、映画そのものをまるごと見尽したような感動があった。
遺作となった『アンストッパブル』は、終わることに対する全面的な抵抗の映画だった。
何かわからない力によって動いているものが破滅を呼びつつあるならば、それを個人の力の限り是が非でも阻止する。終わってしまってはどうしようもないのだから、終わりではない限りは終わりにはさせない。個人の能力ではなく、その個人個人に宿る匿名の意思だけが透明なシステムに抗い得る。意思の力がそこには映っていた。
死んでしまったらおしまいだ。ということを誰よりもわかっているからこそ、あのような映画を作ることが出来たのだとも思うし、その力は限りなく死に近いものでもあったのかもしれない。
もっと彼の作品を観ていたかったというのが率直な思いであるが、彼の映画のように私たち個人が明確な意志を持って生きていれば違う未来を引き寄せることが出来たのかもしれないと思わないでもない。
私たちが生きること、ただ時間を積み重ねるそれのことを後悔と言うのではないかとさえ思うが、そこに積み重なった後悔が自らの意思に厚みを加えるようにも思う。
『デジャブ』のラストで出会うデンゼル・ワシントンの存在が、初対面でありながらすでに十分彼のことを知っているとき、そこには後悔の歴史があった。それがなければ、あのぶかぶかのシャツを着たデンゼルのことをどのような視線で迎えることもないだろう。
そこで過ごした後悔が一つ一つの止まらない時間を貴重なものへと気付かせてくれる。
トニー・スコットの映画はその積み重なった過去の歴史が、未来の時間に豊かな厚みを加えることを、一瞬一瞬力強く失われていく現在を映すことによって見せてくれた。
本当に素晴らしい映画作家だった。
心からの尊敬と感謝とともに。合掌。