『Playback』という映画を観た <追記あり 8/2>

review

この秋に公開される『Playback』という映画を観た。


今年の四月ごろだったか、富田さんと電話で話す中でこの映画がプリントを焼こうとしていると聴いていた。
監督の三宅唱さんの作品は未見。もちろん本人も知らない。ずっと観たいと思っていた『やくたたず』は去年の一月にプラネットでやっていたのだけど、爆音&空族特集の直前で見逃していた。
いい映画を作る人だという話は聴いていたけど、そういう噂は誰であろうとどんなところでも耳にする。でも映画を35mmで仕上げるなると話は別。
デジタルで作られた映画は今のデジタル上映の環境があればフィルムで仕上げる方がデータのロスが大きくなるしコストも高くなる。それでもおそらく多くの映画作家は自分の映画が35mmになったらいいなと思っているだろうけど、フィルムにしようなんて思わず結局デジタルで仕上げる。
そんな中で『Playback』はプリントを焼いた。どういう経緯でこんなことになったのかは、おそらくこれからどこかで言葉として出てくるだろうからそれを待つことにして、こんなことも『サウダーヂ』がなかったらあり得なかったことだろうと思うとうれしくなる。

どうして35mmを焼こうと思ったのか。そして実際にそれが出来てしまったのか。
こういうことは金の問題ではない。
映画を巡るややこしい状況の中で、何かを変えて行きたいだとか、こうしたいと思っていることや、こうあるのがいいというようなことは(すげーざっくり書いたけど)おそらく今、映画と真剣に向き合っている人であれば共有することは難しくない。
おそらくみんな漠然と同じようなことを考えているのだけど、そこでどのようなアクションを起こすかというところで決定的な違いが産まれる。それはもう決定的に違う。
配給&上映のデジタル化で大変なことになっている状況の中で、やっぱりプリントで上映するのがシンプルで良いものが出せるじゃないかと(ひょっとしたらコストも変わらずに、なんてね)今更ながらに気付きはじめたときに、だからといって自分の映画をプリントで仕上げる人がどれだけいるだろう。
何度でも言うが、これは金の問題じゃない。
だからこそ、35mmで映画を仕上げたという噂を耳にして、反応せざるを得なかった。

そうして観た『Playback』は選択と結果の渦中に横たわる持続と断絶の映画だった。
ゆらりと流れるスケートボードの滑走と、それを遮るむき出しのアスファルト。くだまきながら過ごす日常と不意のアクシデント。それらはグルーヴとブレイクと言い換えてもいい。
波を待つ間のゆるやかな時間というよりも、大きな波による断絶のあとの、その渦中にまだ居るところから「ちょっと待って」と言う間もなく次のアクシデントをきっかけにしてふらりとまた滑り出すことを後押しする風のような作品だった。
風はいつも吹いていたし、自分が動けば風は吹く。そんなことを思い出させてくれる。
地を揺らした波によって崩れた道路は新たなうねりを持ち、そこはスケーターにとっての遊び場となる。
波のイメージを更新する映画を観たいと以前から言って来たけど、こんなにも早くそれが観れるとは思ってもみなかった。
ここで語られるスタイルはヒップホップのそれのようであり、グルーブを掴みブレイクで遊ぶサーフィン映画でもある。そうした意味で空族の作る映画ととてもよく似ていた。
これから先、どう開かれていくかがとても楽しみな映画。

東京では試写をしているようなのだけど、今回は友人の尾関さんのおかげでスクリーンで観ることが出来た。
私たちDOOM!は映画館で観るように作られている映画はスクリーンでしか見ないので、タイミングさえあるなら東京へ行って試写で観させてもらえたら、なんてことも話していたのだけど、どうやら試写はしばらくないようで、どうしたものかと思っていたら尾関さんが機会を用意してくれた。
サンプルを自宅で見ることは容易いけど、せっかくの作品をそんな見方はしないと決めてしまえば案外スクリーンで観れるものである。
なんて、すべては尾関さんのおかげなので、特別な上映を用意してくれたことに心から感謝しています。
尾関さんともほとんどはじめてくらいにゆっくり話せて、目標とするものが合致する手応えを感じた。
こうした考えを共有し、実行している仲間が近くに居ることは何より心強い。
それもこれも、無茶を通そうとする何かがなければ産まれることのなかった時間。
いい一日だった。
長崎

one.JPG

<追記>
三宅監督の『やくたたず』は大阪のCO2という映画制作を支援する映画祭によって制作された作品である。
この映画祭に対しては関心がないので毎年観に行ってない。先日尾関さんと話をする中でこの『やくたたず』が作られた年の審査員が大友良英さんだったことを思い出した。
この年はグランプリにあたる作品がなく、大友氏は映画祭に対して辛辣な批判が浴びせた。
その内容は今でも大友氏のブログで読むことが出来る。

http://d.hatena.ne.jp/otomojamjam/20100303

この話をする中で尾関さんは、この批判によってこの年のCO2作品は上映機会に恵まれなかったと言っていた。確かにそうなのかもしれない。実際そうなってしまったのだとしたらそれは作品にとっても作家にとっても不幸なことではある。
しかしこの批判は、果たして本当に作品に対して、作家に対して向けられたものであろうか?税金を使って半端な作品を作るなというのは真っ当な言葉であるし、それは直接作家に向けられたものとして読める。
実際、三宅監督はこの年の作家を代表する形でこのような返答をしている。

http://eigageijutsu.com/article/152723953.html

これは作家としても一人の人間としてもとても誠実な対応だと思う。が、しかしだ。このような反応は本来作家がすべきことだったのだろうか。少なくとも、このような映画祭という場にあっては違うのではないか。
この批判の本当の矛先はどこにあるのかということをよく見直す必要がある。
大友氏は、ひとつひとつの映画が「ぬるい」と言っているわけだが、すべてがそうだと言うのなら、それはその映画祭を準備した者に責任がある。そのすべての映画を作らせたのは映画祭なのだから。
そう、大友氏のこの批判は映画祭への批判であったはずだ。だからそのことへの責任を引き受けるべき者がいた。
もし尾関さんが言うように作品の上映機会が失われたのだとしたら、それは作品を守るべき者が立ち上がらなかったからにほかならないだろう。
そのときその者は何をしたのか。
こんな昔の話を蒸し返すのも、その状況は今でも何も変わっていないと思うからだ。
だから私たちは批判すべきものには指を差す。
お前の立ち位置どこなんだと。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA