子供たちの自由

review

はじめまして。

住野と申します。

先日『隣る人』という映画についての文章を個人的な理由で書きました。その文章は友人の小関さんが送ってくれた文章を読んで反射的に書いたものです。彼女に出来上がったものを送ったあと、『ダーク・シャドウ』という映画を観ているとき、突然文章を人の目に触れる形にする必要性を感じました。そしてその方法について考えた時、とっさにDOOM!のことが頭に浮かびました。関西を拠点に活動する彼らと爆音上映を通じて知り合いになっていましたし、彼らの活動に対して映画好きとして強い親近感を覚えていました。彼らはいまやジワジワ死に近づきつつある映画批評にそよ風を吹きこむ映画の申し子たちです。映画に触れる楽しみを求める限りにおいて人はDOOM!に近づいていくのです。おれもまたその他ではありません。

 

「子供たちの自由」とした、文章は具体的にDOOM!に文章を掲載してもらうことを思いついた後に書きました。彼らの人となりをそれまでにもまして知ることが出来た、今年の関西爆音映画祭で観た『エレファント』に着想の多くを負っています。この文の草稿を持ってDOOM!の長崎くんを訪ねると彼は掲載を快諾してくれました。そればかりでなく、おれの手書きの読みづらい原稿に彼が手を焼いている間、退屈しないようにと、浮動小数点という変な名前のアーティストのレコードを聴かせてくれました。彼の友情と心遣いに感謝を、並びに原稿のタイプを引き受けてくれた水戸の平島くんと仙台の原田くんの寛容さ、おれの物覚えの悪さを補ってくれた安田さんの博識と石井くんの間の良さ、そしていつもその心からの愛を通じて世界を見つめようとする小関さんの勇敢さに驚きを覚えつつ、それにほんの少しだけでも似つかわしい文章であったことを願います。

 

東京では爆音映画祭の後夜祭が始まろうとしていますが、この文章がDOOM!をご覧の方々の日々の映画鑑賞の余韻の一時に賑わいをもたらし、映画を豊かにすることがあれば、それはこの上ない歓びです。

終わりに―『隣る人』という映画についてのいくつかの言葉―に掲載された小関さんの「「隣る人」感想」の文章がおれの手違いにより途中までの状態でアップされてしまったことをお詫び、訂正致します。すでに彼女自身のブログで全文公開されている文章ですので、誤解を招きかねないと思い、ここであらためて、執筆意図ととは異なる入力ミスであったことをお伝えします。この記事に掲載されている文章と併せて再読して頂ければと思います。



「子供たちの自由」
   大学の同級生が七夕の日に北海道で挙げる結婚式に出席した。花嫁は堂々としていてきれいだった。ウェディングドレスがよく似合っていた。友人は髪が伸びたなと思った。
   式に出席した帰りに友人と二風谷という所にあるアイヌ文化博物館と資料館を訪れた。大阪の国立民俗学博物館で視たアイヌの結婚式の映像の中にその地名が出てきたからだ。
   アイヌについて今年の頭から感心を持つようになった。アルバイトの仕事でアイヌの民謡などの記録をデジタル資料化する作業の中で六十年代に再録されたアイヌの歌を聴いた。
   体内の細胞が目覚める音、果てなき高揚感と脈を打つ虚無の流れをその歌は称えていた。時折、老婆が咳き込み歌は中断されるが、砂場で遊ぶ子供のような律儀さで歌は再開される。きっと次の歌の始まりによってこの歌は締めくくられるのだが、だとすれば歌の数だけ宴が続くということだろうか?祈るように繰り返し唱えられるいくつかの言葉は点滅するように意味と方法を行き来する。ハウスミュウジックのようだと、おれは思った。
   友人の一人が、おれがアイヌに興味を持ったのは、大学時代に片思いしていた女の子の影響だと思っていた、と言った。言われるまですっかり忘れていたが、確かに彼女はアイヌの血を引いていて、帰省の際の土産にと云って、薬指くらいの大きさの木彫りのふくろうをくれたことがあった。一昔前の日本の少女漫画調の絵で描かれたアイヌの少女と感謝や挨拶を意味するアイヌ詞とその日本語訳が印刷された包にそれは入っていた。
   その子が酒をおごってくれる、というので、夜中に彼女の家の近くの呑み屋に会いに行ったことがあった。セックスに興味が持てないとか、洋服の持ちあわせが少ないので友人の婚礼に真っ黒な喪服を連想させるワンピース(彼女のお気に入りだということだった)を着て出席した、というような話題が続いた。自分が何を話したかは覚えていない。彼女には付き合っている男の子がいた。
   気晴らしに都心を散策することにした。都心はどこを歩いても最終的には皇居周辺にたどり着き、目につくものといえば様々な年代に建てられた慰霊碑ばかりだったので、気分は滅入った。
   昭和通り沿いを秋葉原から、上野方面に歩いていると視界の片隅をなにか、巨大なものがよぎった。見るとビルの2階くらいの高さまで荷を積んだ大八車を引く、初老の男性だった。
   地面すれすれまで傾いた姿勢で、男の運ぶ沈黙は研磨された鉱物のような微細な輝きを放つ。名前を聞いても何も思い浮かばない国を思い描こうとするとき、そこにはいつだって未来が含まれているものだが、唐突に訪れる想定外を前に、動揺することもなく、落ち着きを取り戻していく意識の流れは反転し、なおかつ逆再生するかのように未来へ還っていく。
   みすぼらしく疲弊し切った夜更けのオフィスビル群を重力の首木から解かれ、後は何かのきっかけで発熱し、光に帰す、男の足取りは、人目に触れることもなく、闇と戯れる星くずのようだった。
   大都市では真夜中に思い切ってしゃっくりをしたり、毛髪を逆立てて頭をたしかにすることのできる野山はおろか、休日に家族や友人と身近な出来事や将来の展望に花を咲かせるに相応しい一時の趣味の押し付けに留まることのない慎み、大衆に媚びることのない公共性をも備えた確かな美意識に貫かれた憩いの場などの本来人が生きていく上で無条件に得られるべき最低限の余裕といったものは無視される傾向にあるものだが、石原や橋下といった賭博場建設や五輪開催など、地方都市をヘドの出るような外国人向けの遊郭におとしめることばかりに熱心なクソ野郎、どうせ都や府を精神病院にして上まえはねたいだけの冷血動物、畜生以下の単細胞が税金を使って事実上のダンス禁止令を施行したり、オタク推奨して引きこもりを増やしたり、その便乗で変な風俗流行っておねえちゃん性病なるから服着てくださいって、戦前ってこんな感じじゃないかと思うんだが、戦前の方が陰湿じゃないだけまだマシだ。
   気晴らしの散策中に訪れた、些細ながらも空想をかき立てられずにはいられない他者との遭遇、は点数稼ぎのおまわりさんの「キミ、ナニミテタノ」の一言でお開き、手提げの中にあった百均のカッターで人を指すつもりだったんでしょ?ホントのこと言わないとキミ家にかえれないよだって。日本の公僕は盲人の社会を求めている。
   密室の中で、我が身が著しい速度で現実と主体が結びついた層から離脱していくことを覚えた。「問題」の文房具で目の前のサカリのついた自動人形を肉の塊に変えてこの部屋を出る可能性について検討し終えた頃、漸く本来の使用途を思い出し、「これはこうやって使うんだよ。」友人の為に自主制作していたイギリスのパンクバンドWIREのベスト盤のジャケットを彼らの鼻先に突きつけて事情聴取(群れの痛みに対する底なしの不感症ぶりを個人が聴取する)は終いとなったが、その後数日間は誰とも口を聞かず、昼は映画館で、夜は川原や空き地に停めた車の中などで寝起きした。
   『冷たい水』という映画の中の駆け落ちした高校生が、知り合いのいない土地の廃墟とも言えない、レンガ造りの建造物のがれきの中で、吹雪を避けつつ、大麻を吸う映像を視るたびに笑ってしまう。高速道路のサービスエリアで声をかけた運ちゃんのトラックに乗って、弦楽器の通奏低音にうずくまるようにして口ずさまれるニコの、そこだけ異なる回転数で再生されているかのような耳障りな歌と共に彼らは黄昏時にその寒村を訪れる。彼らがその場所で飢えを満たし、互いの冷えきった躰を温めるのに相応しい日用品が何であるかが一本のフィルムの終わりと同時に欠落において示される。
   『蜂の巣の子供たち』を渋谷の名画座で観た頃、自分にとって映画はあのヴィニール袋いっぱいにギュウギュウ詰めになった植物の葉のようなものとしてあった気がする。だから、おれは、あのヨレヨレの軍用コートを着た巻き毛の少年と切りたての黒髪がくすぐったいような厚手の毛糸で編まれたジャケットを着込んだ少女、いや、あの雪に覆われた村に到着した時には、少女が彼のコート着込んでいて、彼は全く違う身なりをしていたのだったか、丸くなってジョイントの先端に灯る小さな火を見つめる時、それを同じような姿勢で見つめるおれはかけ出せば辿り着けそうなのに、決して触れることは出来ない場所にフィルムの現在が投影されているおれの現在を笑っているのだ。うまく働く映画はその過剰において、ありふれた損失を全体的に感得させる可能性を秘めているが消費においてそれらは成されない。
   この矛盾は抱腹絶倒の健全さを孕んでいる。
   先日、映画好きの友人と『ラヴ・ストリームス』上映の帰りにお茶している時、それに気付いた(ついでに動物を無断で連れ帰ってくる女性はカワイイという結論も得た)。『蜂の巣の子供たち』は数年に一回いまも、劇場にかかる映画ではあるのだが、あの奇蹟のような『アニキ・ボボ』ほどにも観られてはいない。『アニキ・ボボ』がポルトガルで公開された前年『蜂の巣』を実質的に自主制作した清水宏は松竹で『みかへりの塔』という山間部に造られた児童養護院を舞台にした映画を監督しており、この体験が戦争を経て『蜂の巣』に結実する。
   再び十一年前BOX東中野で企画された「マルクスと映画 20世紀精神史」のチラシに戻れば、「愛と貨幣」と名付けられたカテゴリーに『アブラハム渓谷』、「他者あるいは歴史との対話」と名付けられたカテゴリーの中に『世界の始まりへの旅』、いずれも『アニキ・ボボ』のマヌエル・デ・オリヴェイラが監督したフィルムが含まれており、『蜂の巣』の清水が監督したフィルムは「植民地」というカテゴリーで『サヨンの鐘』『ともだち』更に二本上映されることになっている。ちなみにこの特集の中で複数のフィルムが上映された映画作家は、彼らの他に『カップルズ』『ヤンヤン 夏の思い出』のエドワード・ヤン『海盗り―下北半島・浜関根』『日本発見シリーズ・東京都』の土本典昭、『飛んでいる処女』『「土曜日」の一周年ピクニック』の能勢克男などがいるが、残念ながらおれはこの特集に足を運んでいるわけではなく、全く別の機会にこの内のわずかに二本(『蜂の巣』を含むと三本)を観ているばかりで、この集中の背後にある欲望、マルクスと名付けられた存在について語る言葉を持たない。
   失われた言語、飛散した音の連なりの中でそれらを思い出すことは、できない。
   この悲しみにおいて、叫び始める記号の圧倒的な無表情、その素っ気なさ、退屈さ、静けさを受容するまでの手つき、そしてそれらを力強く消し尽くすことにかけて、外出中の物語は自殺することなしに手紙を、勇敢にもしたためることがある。
   先月、関西で開催された爆音映画祭で上映された『エレファント』、おれは封切りの際、早稲田の映画サークル10人ほどが連れ立って観に来る、極めてエレファント度の高い回に鑑賞した所為か、内容どうこうの前にあまり好きな映画ではなかったのだが(これが小学校の社会化見学であったならまったく違う印象を抱いただろう)、大音量で映画に触れることができたからか今回は冷静に座っていることが出来た。この映画が、音楽に環境音を用いた電子音楽を大胆に採用していることや、一方で撮影された場所での同時録音をそれらの電子音楽に倣うかのように変調、変形、編集することによって、映像と音響の時制や和声の習慣的な使用から大きく逸脱する類のフィルムであることは発表された頃より、各所で度々指摘されてきていると思うのだが、三面記事的な高校生による大量殺人をアートとして提示している様をポップの残滓として有難そうに舌先で転がして満足しているようでは、作品が神格化されるばかりで、そんなことは、実際に起きた事件とも、フィルムの放つ魅力とも無縁の単なるシニシズムでる。というよりもフィルムに付けられた暗号のような『エレファント』という題が指し示すものこそ、それに違いないと日々おれは考えている。
   爆音エレファントを観ていて気付いたことはそのことだけではない。音響に創意工夫が施されていることに異論はないが、音響と映像の連続性そのものが絶たれているわけではない。むしろ『エレファント』では連続性はある程度まで律儀とさえ感じられるほど保守されている。それが最も顕著に現れているのが映画のクライマックスにあたる、主犯の青年二人の内金髪のほうが黒髪の方に射殺されるというシーンだ。この時最初に画面に無人の学生食堂を自動小銃を持ってうろつく金髪が映り、彼の上半身がスタンダードサイズのフレームにぴたりと収まった瞬間死を宣告するかのごとく笛のような電子音が鳴り始め、フレームの外から聞こえる彼の名を呼ぶ声に応じるように、その方角を向くと、彼の右半身から血しぶきが上がり、声とは反対側に体が崩れ落ちる、入れ換わりに構えた散弾銃を下ろしざま、黒髪の青年がそのまま何事もなかったかのようにガラス張りの食堂内を屋外の方に向かってうろつき始めるというように事態は推移する。本来ここは別の映像、黒髪が金髪を狙い撃ち、金髪が倒れると同時に損壊する内壁が映る映像(映画祭で『デス・プルーフ』を鑑賞された方は理解していただけるかと思う。)があるはずなのだが、そのことを置くとしても、あの電子音の鳴る間は不気味である。いかに音が耳に新しく、超現実的なまでに洗練されていたとしても、ある一人の人間の死を表象しようとした途端に、そのリズムは場末のお化け屋敷から聞こえるそれと大差がないのだ。まるで技術が武器を変革しようとも、人が人を殺め、また殺められる時、そこには永遠に鳴り響いている音が存在するかのように。『エレファント』が明らかにしていることとは、この映画の内部に響く奇妙に洗練された、現実と虚構を分かつことが意味を成さない不定形の音と、その音の中で息をする彼らの肩に下げられた武器は、本来同じものだという事実である。そして、現実と虚構の境界が消失するまでに洗練された音の持つ空間的自由さとは、10代の男子が、半日をかけずに大量殺人を遂行する選択の自由と毛の色ほどの違いしかなく、それらをもってしても乗り越えられない(乗り越えるべきでない?)何事かの存在をも、またこの映画は露わにしているように思う。
   それは間、あるいは呼吸の問題と言い換えることができるかもしれない。『エレファント』は、一人の青年が一本のフィルムの連続の中で人を次々に死に至らしめるその身振りにおいて彼自身が彼の手から成る死の連鎖に自らを繋いでいく過程を映し出す。そして来るべき死に対して音に何ができるかが彼らの息遣いそのものとなって現れてくる。その一瞬こそをこの映画は、音と映像の呼吸を思考することで射抜いたのだ。
   間もなく黒髪の青年は異なる殺人へと横すべりしていき、もはや彼の内に秘めた幼児性を隠すこともしない明け透けな殺人予告と共に映画は幕を閉じていくばかりで早足で暮れていく空は惨劇の終わりを映すことを拒み続けている。
   爆音映画祭では、『エレファント』以外にも『ドン・ハーツフェルト作品集』と『キック・アス』を観たのだが、偶然にもと云うべきか、両方とも子供が出てくる映画で彼らもまた殺されかけ殺し殺されるのだった(前者に関してはアニメなのでもしかしたら子供のように見えても実際はいい年したおっさんだったりするのかもしれないが)。そして嫌悪されることこそあれ、好まれそうもない人物の生き様や出来事の推移を安直な是非や善悪に寄り添うことなく、描写することで、どのような世界においても一面的な価値判断を他者に押し付けることこそが悪の最たる姿であることを浮かび上がらせているという点でも共通していたように思う。個人の狭小で性急な視点を解答として売りつけることよりも、明確な始まりもなければ、終わりも見えぬある巨大な闇に対して、それらに光を差し向けるかのごとく誠実な問い掛けを試みることこそがフィルムの在り方なのではないか、あの電子音はわずかの間、確かにそう語っていた。そして、単一の時間が異なる視線を媒介に複数の思考を育み、その交流の気配をも匂わせる。これが可能性でなければなんなのか。可能性は自由を追い求める姿を追い求める身体の中に眠っており、互いを見つめる視線の中で目を覚ます。
住野貴秋

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