ジャージー・ボーイズ


アメリカ人がどのようにフランキー・ヴァリを受け止めて来たかについて、パンフレットにある湯川れい子氏のテキストによると、ビートルズの勢いがすごかった60年代に肩を並べんとするシュープリームス等モータウンの黒人音楽があり、さらにその勢いに負けないアメリカのグループとしてフォーシーズンズがいたと、ざっくり要約するとそんなことが書いてあり、なるほどビートルズのようなイギリスから入って来た音楽でも、黒人によるものでもないアメリカの白人の音楽としてとても輝かしいものがあったからこそのロックの殿堂なのだろう。
しかしその輝かしいフランキー・ヴァリがフォーシーズンズ解散後に借金を返すために歌っていたという事実をアメリカはどのように受け止めるのだろう。そんな無粋なことを考えたが、しかしこれはイーストウッドの前作『J・エドガー』でのFBI長官の輝かしい経歴と自身の同性愛、そして同性愛者への差別を描いたことと地続きにあるテーマだと思う。

もしこんな内容の映画を日本でも作るとしたら山田洋次あたりが島倉千代子を主人公にするのだろうか。なんてことを考えると、この映画がいかに「演歌」でない映画かがよくわかる。
島倉千代子にしろフランキー・ヴァリにしろ「人生いろいろ」あったわけだが、グループは解散し、友人のために借金を返し、そのために家族の不仲は広がり、娘は自殺までしてしまい、その果てに歌った歌が「can’t take my eyes off you」であるか「人生いろいろ」であるかは決定的な違いがある。
人生いろいろあった人が「人生いろいろ」と歌うと確かに胸に響くが、そこには音楽そのものとはまた別の物語の効果がある。この映画はそうした個別の物語と音楽とを切り離している。

トミー・デヴィートのろくでもない性格は久しぶりに会ってもろくでなしで、結局フランキーの献身もなんの意味もなかったのだろう。しかしフランキーの無闇に献身的すぎる性格も一見するとたくましいが、家族のことは二の次になるというのも同じくらいろくでなしだし、しかしそれが彼なのであり、どうにか出来るものではない。

その人の変わらなさ、貫かれた個性によって歌われる音楽がただただ自由で、気高く尊い音楽がスクリーンにあふれる、ただそれだけの幸福感に心が満たされた。