『隣る人』という映画についてのいくつかの言葉

review

『隣る人』という映画へのテキストを友人が書いたということで、DOOM!のホームページに載せられないかと提案された。
以前からこのホームページは誰でも書きたいことがあるときは利用してほしいと言ってきていたし、言葉にしたいことがあるときは、それを主張する場として活用してもらうことを目的としてきた。
日々を呼吸する中で、納得がいかないことがある。
他人には些細なことであっても、どうもざわつきが収まらない。
それぞれにとって大事なものが疎かにされていると感じたとき、それを守ることができるのは、その力に抵抗するための新たな力ではなく、守りたいと思った感情そのものだと思うから、そのアクションへの原動力を載せた言葉なら聴いてみたいと思っている。
その感情を頼りにして自己を主張すること。これはその声の一部である。



「隣る人」感想
完全ドキュメンタリーと唄っているのであれば、その映像は観る人にとって大きな情報でもある。
「隣る人」は舞台として大きな問題を抱えた現場を取り上げている限り、問題に触れているはずなのに、twitterの隣る人のアカウントからのRTや観た人たちの感想や寄せられたコメントを読んでいても、その問題について声をあげている人はまず見当たりません。例えば、むっちゃんの言動に対するコメントってすごく多いのですが、すごく悲しい言い方かもしれないけど、一動物に対しても言えるようなものに感じられて仕方がなかった。私が思うにそうなっている原因は、現場を撮っている監督の視点の乏しさでは無いかと感じた。
私は映画を見終えた後、監督に「あなたはこの映画をつくるべきじゃなかった」ってはっきり言いたかった。児童養護施設に期待したものが丸見えだった。少なくとも、大人が泣き笑いをする”為”の場所ではない。大人が子供をワイワイと振り回して、あれをドキュメント映画として自身満々に発表していることが、とても残念だったし、腹立たしかった。
その場所で涙があるとすれば、限りなく延長線上(行き止まり)で産まれるべきものでは無いのだろうか。涙の理由をくみ取れば、施設としてはなるだけそうならないように努めなければいけなかったのではないか。なのにそれをどう子供が堪えるかをじっと撮り続けたりその時を待ち望むかのように撮影し続けていた大人達のモラルを疑うし、それに協力していた大人達の気がしれない。
強い子供は、泣きたい時笑うことが出来る、と思った。あの映画で子供達が笑っている時の殆ど、暴言を吐いている時の殆どは、泣きそうな時に泣かない為のものだった。でもそれはこころを透明にすることだった。大人達はそれに感動していたりするけれど、だけど本当は、それはとても悲しいことだ。わたしが隣にいたら、一緒に笑って叫んで、そして泣いた。
わたしはこの施設も施設長もはっきり言って嫌いだ。
この映画を撮ることに容易くかは解らないけれど、自分の顔が映画に出されることを判断できない子供たちを撮ることにどれくらい責任がとれるか解らないまま承諾したことは責任が大きい。
それに施設の先生というのは、親には一線を引き、冷たくいるべきだ。親達に、自分達が何をしているのかを少しでも解らせなければいけない。どんなに優しい言葉をかけたり挨拶をしたとしても、心は鬼にしていなければいけない。
後は日常で、ママではない人を、ママと呼ばせていた。それは子供からママを失わせることになる。そしてわざわざ子供が号泣するようなママと呼ばせた担当者との別れのシーンが産まれたのかさっぱり理解できなかった。養護しているはずの施設で、どうしてあんなに悲しませなくてはいけないかったのか。ああいったことにならないようにする為の施設ではないのか。もっと子供のことを考えることができたのであれば、別れさせるにしても、悲しみをなるだけ感じさせない方法があったはずだった。だけどそうなるのは、結局は大人達がカメラに撮りたいからだ。
あと、子供を母親に会いに行かせた時に園長が「泊まってもいいんだぞ。」「お前が決めればいい。」と言いながらも「(園に)帰る」という子供の言葉を否定し、無理矢理実家に泊めさせて「最後」を味合わせたのはこの映画の中で一番許せないほど無茶苦茶で残忍なことだと思った。この子のこの先のことをもっと考えて欲しかった。この先、この子は二度と求めることを辞めてしまうかもしれない。この子もいつか大人になって、自分で自分を生きるようになれば自分の足で会いにいくことができるかもしれないのに。それはとても希望があることだ。だから大人はその希望をそっと守ってあげなければいけなかったはずだ。
そして映画の終盤、10歳の誕生日会では担当者が「ずっと一緒に居るからね。」と涙を流しながら、その子に言った。その子は微笑んでいたけれど大人の為に笑っているようにも見えた。もうやめて欲しかった。どこまでこの子の人生を大人の嘘で戸惑わせるのだろう。
そのときに、わたしは、全ての大人が全く別世界に存在しているかのように思えてしまった。そうしてその日は全ての大人を信用できなくなった。少なくともこの映画に出てきた大人達全員、この映画を製作した大人達全員、この映画を観た大人達も全員。
実際、わたしが信用できなくなってしまったように、むっちゃんも大人をもう誰一人信用していないんじゃないかと思った。信用と一時的に甘える仕草は別だ。誰でもいいから甘えたいのは欲求だからだ。
むっちゃんは大人に振り回されて、誰よりも一人で大きく成長させてしまった心がある。小さな頃から施設で育った女の子が、まるで男の子のようになってしまうのは典型的なパターンだ。もうむっちゃんは、一線外から、大人や世界を見ている気がした。少なくとも、この映画に出てきた大人達全員、この映画を制作した大人達全員、この映画を観た大人達も全員。私も含めて。
私はこの映画の全てを否定しているわけではありません。それは誰かの手によってこの映画が出来上がり絶賛されているという現実が、現実だからです。そしてこの映画を観ることで、世間がこれだけ刺激を受けるのだということが解り、世間の養護施設への認識の乏しさを知りました。これからこの映画が広く認知される事になることは否めません。ただそのかわり、今後観る人にこの監督の視点だけでこの映画を捉えて欲しくないと思ってしまうところがあった。
児童養護施設が、大人を癒し救う為の場所なら無い方がいい。この映画に出てくる施設を観ていると私の目にはそう映った。子供の隣にいて大人達が「元気を貰っている」「全部好き」、なんてことを言うのなら、子供にとっての「隣る人」ではなくて、大人達の隣に子供が居てくれていると思わなければいけない。
リアルに子供達がこころを透明に近づけていく様が、美しく捉えられて大人を安心と感動に導いてしまっているのならば、この映画は心から悲惨な映画だ。
大人の事情は隠されて、剥き出しにされた子供は完全に「素材」として扱われ、間違った形で琴線に触る映画だった。
わたしはこの映画を、施設出身の仲間や友達に教えたり見せたりすることは絶対に出来ません。
あとはカメラワークも酷かったです。
もっと、子供にカメラを持たせて撮らせても、良かったかもしれないですね。

plumham.jugem.jp

   『蜂の巣の子供たち』という映画を観たことがある。1948年に撮られた焼け跡で生きる孤児たちを描いた映画だ。特別子供に強い関心があるわけではないのになぜそんな映画を観たのかわからない。どうせやることがなく、暇だったのだ。
   ある少年が港をうろついている。少年は空腹である。少年はなんとなく闇市にたどり着き、大人たちが取引を行う様を見つめている。ある物売りにふと目が行く。身なりのよい紳士に調子良く、対応しているが、客はためらっているのか、足元をみているのかすんなりとは応じない。煮え切らぬ男の態度にいらだった物売りの振る舞いがやや恫喝めいた色彩を帯びたところで取引が成立する。物売りが品物を男に渡す瞬間、少年は物売りの目を逃れ小走りに山積みになった品籠の1つに手を伸ばす。掴んだ刹那、自分の手首が握り締められていることに気づく。顔を上げると、怒りに歪んだ男の顔が目の前にある。少年のを握る手とは逆の手が宙に振り上げられた矢先、その手首はさらに大きな手によって捕えられている。大きな手の兵士は物売りに簡潔に少年が弟であることを述べ、目を離したことを詫びる。物売りは礼儀正しく兵士をたしなめ、少年に小言を漏らすが、兵士は少年の手を引き、道を歩き始めており、物売りの声は宙を漂う。人混みに消える二人から目を反らすかのように、物売りは地面に向かって呪いを吐く。
   港をのぞむ丘の上で、兵士と少年は食事をとる。兵士が少年にどこに行くか尋ねる。少年は会ったことのない親せきを頼って母と移動中であることを話す。兵士は自分は戦友を訪ねる途中なので、親せきの家まで同行することを提案する。少年のおぼろげな記憶を頼りに捜索は始まり、間もなくそれらしき家が見つかり、少年は親せきの家にあずけられるが、別の家であることがわかる。兵士は戦友の家に向かっており、少年の手には兵士の持っていた袋だけが遺される。その後少年の親せきの正しい住所をその家の人に教えられるが、同時に少年の親せきは疎開中で不在であることが告げられる。少年は、親せきの家で母を待つことを選ぶ。しかし母はやって来ない。兵士に分けてもらった食糧は底を着きかけている。少年は母とはぐれた港で母の行方を探す。そんな少年を片足のない男が見つめている。少年が歩き出すと片足の男も杖をつきながら歩き出す。少年が足を早めるとにわかに片足の男も速度をましているかのようだ。少年はもはやかけ出し始めている。少年は肩にかけていた袋を胸に抱くように持ち直す。片足の男は器用に人混みをすり抜け同じ方向に歩いてくる。少年は片足の男を振り切ろうと無我夢中で走り出す。片足の男は杖をまるで長い足のように操り、宙に浮いているように歩いている。少年が辻に差しかかったところで後ろを振り返るやいなや少年の身体を強い力が通り過ぎる。少年が交差した方に身を翻した先には、少年の袋を肩から下げた別の少年が遠ざかって行くのが見える。少年は全力で別の少年の向かった場所に向かって走り出す。
   盗人の少年が立ち止まり、おもむろに笛を吹く。ものかげからやや盗人より大柄な別の少年が姿を見せ、盗人が彼に収穫を手渡そうとするところに、少年が追いつき、弾丸のように自分の袋を引ったくる。げっこうした盗人が少年に殴りかかろうとするのを大柄な少年が制し、事情を尋ねる。いまや少年は目に涙を貯め、うわずった声は、意味を持つ前に、あとに続くより大きな自分の声にかき消されて行く。少年は叫んでいる。困惑した大柄な少年の拳は行き場を失い、弧を描くように盗人の頭をど突く。手が痛い。痛みが引く頃少年は名乗り、盗人の名前を告げ、自分の後をついてくるように言う。少年は、地面に空いた穴におりていく。
   おれの手元にはいま、若葉色のチラシがある。「マルクスと映画 20世紀精神史」と名付けられた50本近い映画群から成る特集上映のようである。このチラシの<抑圧、あるいは弱きものたち>の「子供」の中の3本の1つに『蜂の巣の子供たち』の題が見られる。おれはこの特集上映に足を運んでいない。上映の会場はBOX東中野、ポレポレ東中野と名前が変わり、現在もこの劇場は存続している。作品の本数が多いのでそれを列挙することはしないが、この特集のために選ばれたフィルムの充実ぶりには目を見張るものがある。
   おれがこのチラシを見つけたのは、好きな娘との会話がきっかけだった。その日彼女は体調を崩しているようだった。『隣る人』という映画を観てから、気持ちが晴れないとのことだった。おれは彼女に頼まれて、彼女より先にその映画を観ていた。確かその日のうちに感想を伝えた。おれは言いづらかった。彼女と映画の感想を巡って言い合いになることがあったから。彼女と話している時、おれは後悔した。「おれはこの映画を彼女に見せてはいけないこと」を知っていたのだ。夕暮れか、明け方、公園のようなところから矩形の建物に電気が点いているのが見える。スクリーンには一面に垢のようなものがういており、生理的な不快感を強烈に呼び覚まされる。この、カメラが、おそらくは、これから、人に向けられるのだ。まるでそれは、肥溜めに向かって落下していくジェットコースターのような体験だ。おれら観客は、「隣る人」を汚物のように見つめることを強いられているのであり、「隣る人」はおれのことを必然的に汚物のようなものと感じているということなのだ。
   『隣る人』にはなく、『蜂の巣の子供たち』にあるものを1つ挙げよう。それは子供だけの時間である。『隣る人』において、子供だけが画面に映っている時間は皆無に近く、また子供同士は互いに極度に寡黙なのだ。
   では、なぜ彼らはそれほどまでに寡黙なのか?数少ない時間において、なにが起きているのか考えてみよう。
   むつみという少女がいる。学校の帰り道、彼女は友人と公園に寄ったが、友人は先に帰ることを告げて去っていく。彼女はひとりになる。間を持て余したのか、彼女はカメラに向かって語り出す。
「何撮ってんだよ、ヘーンターイ!!」どこかで眼にしたかのような言葉はややうわずって響き、語尾はやや抑制されている。無論これはタチの悪いジョークであることを暗示するために彼女はそうした。目には力が籠っている。続くいくつかのカットで彼女は黙りこくっている。これは編集上そうなっているのであり、この一連の出来事が連続しているのかは定かではない。
   薄暗い部屋の中でむつみと同室の女の子が柄の違う布団を取り合っており、むつみがやや強引に自分の主張を通して二人は床に就く。女の子が、自分たちの受け持ちの職員が、非番であるという話をする。2、3それに関して言葉が交わされる。
   小柄な男の子が、背の高い男の子にからむ。背の高い男の子はやり返さないので、小柄な男の子は段々と勢いを増し、背の高い男の子が倒れる。倒れた男の子にさらに奇声を上げつつ、飛びかかったところで職員が止めるように言う。興奮した男の子は言うことを聞かず、言い返す。職員と女の子がそれに反論し、小柄な男の子の弱さを断定する。
   おれが覚えているのはそんなところだ。少年も寡黙ではないし、少女も寡黙ではない。彼らはカメラによって寡黙なのであり、隣る人によって寡黙なのであり、おれによって寡黙なのだ。『隣る人』が観客に向かって提示したこととは、そのようなことだ。
   世界が汚れているのではない。汚れた視線によって世界が汚されているのだ。汚れた視線に汚された世界でおれは汚れていく。その時おれは何を見るだろう。それだけは分からないが、ただ、おれは汚れた意志をもって、汚れた言葉を吐くことが出来る限り、おれの汚れた愛において、愛するものたちと言葉を交わし、愛を口にしたいように思う。蜂の巣の子供たちのように。
住野貴秋

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