“仕方がないことなどない”というおまじないを唱えて

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東京から帰ってきた。

今年の爆音映画祭は昨年とは違ってとても忙しい時間の中にあった。
映画祭が始まってもやらなければならないことが山積み。未だにクリアできていないことがあるかもしれない。
樋口さんをはじめとする爆音スタッフのみなさんは連日朝から晩まで働き通しで疲れているだろうに、疲れた様子は少しも見せなかった。むしろとても楽しそうにしていた。
やらなければならない仕事というのが、日々の業務が山積みになるというようなものではなく、それらの多くが初めての試みであるということもあり、一人一人の身体を必要としながら少しずつ問題が解消されて行く日々が楽しそうであった。彼らの傍に居ることはこちらにとってもとても楽しい時間であった。


未知のものに触れる作業はとても楽しいもので、そうした何かを作り上げる好奇心がすべての原動力のような気がする。

日々惰性になる生活に対してどうやってその好奇心を作っていけばいいか。そのことには常に気を配っていたいと思う。
映画のデジタル化というものが自分にとっての映画の楽しさをごっそりと奪っている。
自分は映画の何を観ていたのかと言われると、フィルムを観ていたのだというのが一番しっくりくる答えになると今になって気付いた。
フィルムを観るとはどういうことか、それは物を観るということであり、その物に刻まれた時間を観ることであり、時間を通して社会を観ることであり、社会を通してこれからのことを考えて行くことである。
それがデジタル化ひとつでその好奇心を簡単に奪われてしまう自分もどうかと思うが、しかし映画から人の手を介した雑味が見えてこないデジタル上映というものが退屈で仕方がないというのは正直な思いでもある。
それでも爆音映画祭に行くと、映画からたくさんの思考をもらうから不思議だ。
中でも牧野さんのプログラムからは大きな刺激を受けた。『2012』という作品は上映されるごとに長くなっていく映像に合わせてライヴで牧野さんが音をつけるという一回限りの上映なのだが、目の前で映画が完成されていく様を目撃する映画と言うよりも、目の前で解体されて行く映画を必死にこちらの眼が映画として留めていくようなものだった。
そして帰りのバスをキャンセルして少しだけ観させてもらった瀬田さんの新作『5windows』も、いくつもの断片がスクリーンに投射されるその動き一つでまったく新しい命を獲得してしまうような作品だった。
昨日今日と上映された『5windows』の街頭上映も、それらの断片を観客の眼の記憶が映画にしていくようなものだっただろうと思う。
昨日の雨の中の上映を手伝っていた大塚さんがプロジェクターの写真をツイートしていて、それがホームレスの家のようでおかしかった。プロジェクターがホームレス化していた。
今まで家=映画館にしばられていた映写機が映画館を持たなくてもよくなったと考えると、何かおもしろいことが出来そうな気がして来た。
なんとか爆音映画祭に参加することが出来たが、これからどうやって生活をすればいいやら、まったく困っている。
日々金はないが、金がないことなんてたかだか金だけのことなのだから、なんとでもなるだろうと半ば開き直ってもいる。
実はこれから東京に行って9日の『5windows』の上映を観てこようと思っている。
ほんとうに生活出来るかまったくわからないというかたぶん出来ないのだけど(それにどうやって東京に行って帰ってくることができるのか自分でもよくわからない)、時間はあるのだから行くことにした。
悶々とするくらいなら、生活に死にそうになりながらでもやれることをやっている方がいい。
映画のフィルムのことも、デジタル化による映画館の運営のことも、どちらも大きな問題なのだが、解決法を見つけることは簡単ではないし、とはいえ悶々としているだけでは日々フィルムが失われて行くだけだから、自分たちでフィルムを上映してくことは出来ないだろうか。とにかく観てもらうことは、なによりフィルムを生かすことになる。手っ取り早い。
もっとわかりやすく言えば、映画館を持てないだろうかと、そんなことばかり考えている。
そこへ向けて動いている。
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