『NINIFUNI』は都会に向かって地方を映す

review

今日はすごくおいしいご飯を食べた。
うちの近所の、というか真向かいのイタリア料理屋が尋常じゃないクオリティで、しかも安い。こんなところにこれまで二年近く行ってなかったと反省するくらいうまい。
パスタももちろんうまかったのだけど、デザートのみかんのケーキみたいなの、ほんとおいしかったなぁ。しばらく通いそう。


『NINIFUNI』を観た。
この映画は地方のランドスケープ・サウンドスケープに響くものを地方の立ち位置から描くのではなく、都市の側から入り込んでフレームにおさめていく。
製作としても経済的に持てる者の立場から作られた映画であり、その映画作法も映画のフォルムをまとっている。
だから映画はよそ者としてその風景に入り込む。そうでなければ映せないもの、表彰不可能なものがあるからこその態度でカメラを向ける。
よそ者として映画を撮るということは、わざわざカメラを持ち込むということだ。つまりそこにはカメラを向けなければならない理由がある。
この映画がどこにでもありえるような些細な事件、映画として映される必要のなかった事件を扱うということは、よそ者としてカメラを持ち込んだ時点でそこに作り手にとっての理由があるであろうことが前景化することによって、映される必要のあるものへと対象は移行する。
そのときすでに事件は特別なものとなり、カメラは特別でないものを映せなくなる。真利子監督は当然それを自覚し、あくまでよそ者としての装備を徹底させ、映り込む光も風景も写実的な美しさをまとうことになる。音も光も的確に観客に奉仕する。
確かによそ者の立ち位置からしか映せないものはある。つまり車内でのガムテープの音が響いたとき、マクドナルドの紙袋の音が響かなかったことを思い出さずにはおれないし、あるいはももいろクローバーのメイキングやクレーンショットもまさしくよそ者の映像であり、そこでの音の響きのずれこそがよそ者であることの的確な証明として響くからこそ、それらは映画にいっさいのずれを呼び込まない。
映画にずれを呼びこむとは、作り手の意図しないアクシデントを招き入れるということだ。この映画はあくまでもよそ者のよそ者によるよそ者のための映画であって、アクシデントを取り入れてはルールが破綻してしまう。だから草むらの車というアクシデントはなかったことにされるのであり、また映画の半分以上映されることになる宮崎勝についてよりも、プロデューサーらしき男の思考の方が理解に難しくないのもそのためだ。
しかしそこで映画はようやくくるりと反転し、宮崎勝をよそ者としてとらえるようになる。つまりここに映される風景がすべて、都市の者の都市の者による都市の者のための映画となる。
この映画は持たざるものが蜂起する映画ではなく、持てるものが放棄した映画である。しかし放棄は退屈で平凡だ。
地方の空気をわかりやすくパックはしているが、少しもヒリヒリビリビリしてこないのは贅沢な欲求だろうか。
持てるものたちを放棄させるのに、ビリビリさせてはならないのだから。
それにしても田辺さんの司会、これまで見てきたどんな舞台挨拶よりもスマートでコンパクトで的確で娯楽していてすばらしかった。田辺さん、ラジオとかテレビで映画の喋りの仕事をしたらすごいんじゃないか。あの簡潔さがあれば映画に興味もつ人が増えそう。改めてリスペクト。

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