まんすりーこうしん!&『サウダーヂ』シネクラブ後記

review

マンスリーDOOM!更新しました!!

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はい、けいおんふうじぇねれいたあなるもので遊んでいました。
それはいいとして、マンスリーは毎月更新する度に前のものは消えていくというようにしようかと思っていたのですが、やはりそれはやめました。
消えるようにしようと思ったのは基本的には流動性を取り入れるためだったのですが、ウェブに載せるものって共有物って側面もあるのでそのやり方は一方的過ぎるかと思った、というところです。

先日のシネクラブ、お題が『サウダーヂ』ということもあってたくさんの方にご参加いただきました。ありがとうございました。
ただでさえややこしい語り口をもった映画なので、それを語るこちらまでもがややこしさの中でサウダーヂ化するというごちゃごちゃした時間でしたね。どうやったらそこに風穴を空けられるだろうかと、そんなことばかり考えていたという感じです。
しかしあの映画を状況や背景の違う見ず知らずの人と語るというのは、まさしく『サウダーヂ』の中で描かれている人々のすれ違いととても近くなってしまう。冗談抜きで誰かを刺すことでしか共通点を作れないんじゃないかと思えるほど。
というのも、あの映画のややこしさはスクリーンの外にまで映画がはみ出しているところにあって、映画で描かれている人たちが実際にも同じような仕事や生活をしているということをどう捉えるかを常に迫られるわけで、たとえば舞台挨拶などで空族がしゃべっている映画に描かれていない背景などは彼らの言葉を通してとても興味深く響くのだけど、それが果たしてスクリーンに映るイメージとどういう関係にあるのだろうかということはひとまず考える必要があると思います。
例えば暴走シーンを撮っていたら実際に本物のやくざが来てしまったとき、本物きちゃった!って人は驚き興奮するのだけど、じゃあそのあと本物の人が映画に映ったことなんかも、それが本物の人だってことは映画にとってどういうことなのか?それらのエピソードは映画をまたひとつ魅力的に感じさせてくれるアイテムではあるけど、スクリーンに映るものとはまた別のもの。
田我流が何十テイクも重ねたという商店街でのフリースタイルも、何十テイクも重ねたことは作ることそのものとしては大変な作業だけど、それもスクリーンには映っていないわけで、何十の中からその一つが選ばれ映し出された映像に対してのみ観客は思考できるのだと思います。

そんなことが今日観た『スリ』の冒頭から書かれていて、そこには「この映画は刑事ものではなく、ある男の悪夢を映像と音で表現した」というようなことが書かれていました。
映画は冒頭からモノローグで進められ、それは一人の男の手記によって過去形で語られているのだけど、ここで観客が思考する価値があるのは、あの男が何を考えているのか、なぜこのような手記を残し自らが犯行を語るのか、そしてそこで語られる言葉がどういったものなのかという言葉そのものについてではないはずで、手記として書かれたこと、そして書かれた言葉がありながら、それでも彼の表情はあまりに虚ろでやせこけていること、彼が何を考えていたと言われようともスクリーンに映るもの、聴こえるものとは何かしらの齟齬があるという、その映像や音と回想の間から見えるものこそが観客のみが唯一発見することのできるイメージなのだと思います。
その観客だけしか観ることができないイメージを作り手はわざわざ映画を通して表現している。だから観客は堂々と「実際はどうだったか」という現実に振り回されることなく映画館で受け取ったイメージを語ればいい。
『スリ』は当人の語りという本物による事実らしきもの、真実らしいものとして尊重されるものが存在しながら、それでも映画として改めて撮影されている。同じように『サウダーヂ』も映画とする前に作られた『Furusato2009』という作品がある。しかしそれさえも現実とは似て非なるものだということを観客がどこまで想像することが出来るか。映画がどこまでも現実に近寄る中で(あるいは現実が映画に近づく中で)映画を観る観客の想像力が試されるのはその点にある。

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