home!

review!

diaries!

works!

about!

link!

彩りの妄想

| コメント(0) | トラックバック(0)

とある事情で引っ越してから初めてテレビをつないだ。
んでVHSに録画をしたのだけれど、今時VHSはあまり使われていないんだよな。
でもしばらく前に友人にBSを録画してもらったときに、ハードディスクに保存されたそれをDVDに焼いてもらったことがあったが、何がどうなってかよくわからんがうちのプレイヤーやMacやPCでは再生出来ず、ファイナライズ云々かと思ったがそういうことでもないみたいで、おそらく互換性の問題とのことでわざわざVHSにコピーしてもらったことがあったのだが、どんな番組でも大概レンタル出来る今時「あの番組見たか」とか「録画したの貸してくれ」とかということはあまりないのかもしれないが、もしあったとしたらその度にDVD読み込みが上手く出来ないとかそんなやりとりをやっているのだろうか。だとしたらとても不便だ。というか、観る気が一瞬でしょげそう。VHSもそれはそれで悪く無いと思うのでした。


来週の火曜から高松へ行って、瀬戸内国際芸術祭巡りをしばらくしてから実家へ帰る計画を立てているのだが、進行中のあれこれは大丈夫だろうか。何も連絡がなければ帰るつもり。帰ってる間に連絡があってもそれはタイミングが悪かったということで。

普段からそれほど美術に関心があるわけでもなく、どちらかというと美術はよくわからん、正確に言うとみんなが良いと言っている美術のことがよくわからん、さらに正確に言ってしまえば、みなが良いと言っていることはわからんでもないが、そんな簡単な解釈で簡単に良いと言ってしまっていいものかと。それでもたまに美術にも感動することはあって、それはほとんどがコンセプトというか、その美術がやろうとしていることと出来ていること、それをどう見せていてどういう人たちに届いているのか、ということには時々感動することがあります。そういうときだけ「良い」って言葉を使うんですが、たぶん言葉にズレがあるだろうとは思う。
でもさぁ、作ってる方もそんな簡単に「あれ良いねぇ」なんてわかられてたまるかって感じじゃない?


次回シネクラブお題の『カラフル』を観た。
ファーストカットがとにかくやばい。見てはならないものを見た感じがして鳥肌がたった。おそろしい。しかしこれから観る人のために多くは言わない。このファーストカットのためだけにでも見て欲しい、それくらいのやばさ。
原恵一のアニメ、確か前作の『河童のクゥの物語』のときにも思った気がするが、アニメーションなのにカメラで撮影してる感じがするんだよな。
そもそもアニメも撮影されたものだし、それにこの作品では実際にカメラで撮られた映像も混じっているみたいだったけれど(あさのいにおみたいな実写の使い方だった。見間違え?)、そういうことじゃなくて、カメラが撮影するときのこちらが意図しないものが写り込んだ感というか、作り込まれたものに潜む適度な雑味というか、そういうものがちらほらの見えて来た気がした。アニメとして書かれる必要のないものが書かれていて、それを観たときには書かれるべきものになっているというか、そうして現実でも虚構でもない時間を滑り込ませているというか。
それはおそらく音にも仕込まれていると思うのだが、この映画は多くの音をフィールドレコーディングによって作り込まれているんじゃないだろうか。ひょっとしたら台詞もアフレコではなくプリレコもしているのではないだろうか。
アニメーションという全てに対して緻密に作業が出来るものだからこそ、録音されたものや実在する街のようにすでにそこに生まれてしまったものを相手にして、その抗えないものと格闘することによって現実とも虚構とも違うものを産み出そうとしているように思えた。ひょっとしたらそれはアニメーションともまた別のものなのかもしれないが。
パンフレットにその辺の技術のことは書かれていないだろうか。買いそびれた。

と、今思いだしたけど、瀬戸内巡りに行くとなると次回シネクラブには参加出来ないので、誰かこの視点で代わりに喋ってみてください。新たな妄想が生まれるかも。


と、書いてから追記 --am3:18
映画の中で遥か昔に廃線となった路面電車が出て来たが、それをいかにも昔の映像っぽくということではなく主人公たちと同じ時間の流れとして電車が動いているというシーンがあった。
これはどの時間の出来事なんだと一瞬混乱するのだが、アニメーションはカメラで撮られた映像のように虚であれ実であれかつてどこかで起こった出来事が映されるわけではなく、書き込まれたもの、作られたものであって、時間は停止状態に近いのかもしれない。しかしあの電車はその止まった時間にまた別の時空を運んでいた。



昨日買った食材と福井さんにもらった茄子を使ってパスタを作ってみる。






茄子メイン、






それにオクラとか小さいトマトを入れてみた。








そうそう、






スイートバジルという葉っぱも買ったので、それも使ってみる。










仕上がったものを見ても、






いったいなんのパスタだかよくわからんものが出来た。








味は、、、、












うーん、ぼちぼち。








バジルの匂いがきついかと思ったけど、食べる頃にはいい具合に抜けていました。






バジル、乾燥させて保存しとこう。










今日は安川さんがフランスに出発した日でした。今頃雲の中でしょうか。(「雲の中」という言葉はおかしいな、あぶないよ。「雲の上」ですね。)
ということで出国記念、行間の多いブログを書いてみました。
いつも文字の詰まった日記ばかり書いていますが、いつだったか安川さんと行間の多いブログの話で盛り上がった記憶があるのでした。








昨日淀屋橋の如何にもオフィス街然とした公共空間で小さな市というにも物足りない小さな出店が立てられていてミナミへレコード買いに行く途中でそんなところには用がないにもかかわらず偶然の出会いという偶然性に誘われてそれが良いとか悪いとかという判断を一旦留保したままにいくつかの野菜と納豆(藁で醗酵させたもの)を買ったわけだが、恥ずかしくも偶然性を喜んで受けてしまいその野菜たちをどうするかということは冷蔵庫に閉まった段になって考え始めたわけだがいつも通り「まぁ、パスタでも作るか」ということになったわけだが、先日福井さんからもらった茄子は実家で採れたものだそうでこれが身も皮もやわらかく味も濃くてなかなかおいしいもので田楽で食べるときっと旨いだろうなんてことを考えていたのだけれどパスタにしても合いそうなのでざっくりと厚めに切ってオクラと小さいトマトも一緒に入れて、さすがにかぼちゃは入れなかったけど、スイートバジルなる生の葉っぱも買っていたのでそれも小さくして入れてみたらやはり生の葉っぱは匂いがきつくてこれは入れすぎた失敗したかもと思っていたが麺が茹で上がるまでに火を通しすぎたのが良かったのか悪かったのか食べる頃にはちょうどいい塩梅で、まぁそれなりに悪く無い味ではありましたけれど、とりあえずバジルは乾燥させて保存しとくくらいがちょうどいいんじゃないかと思いました。

きな子と杏子

| コメント(0) | トラックバック(0)

朝からチャイムの音で目が覚める。
誰かと思ったら知らない人だったので居留守を使って(きっと金の催促)また寝たのだが、しばらくしてからまたチャイムが鳴って、たぶん同じ人だろうと思ってまたしても無視をしていたら足音の遠のく音がしたのでぼちぼち起きるかと目覚ましを見るとさっきのチャイムから20分ほどしか時間が経っていなかった。また来るんだろうか。

昼から『きな子 見習い警察犬の物語』を観た。
前回告白した通り、動物映画には滅法弱い。だから今回もまぁぐずぐずになるだろうと覚悟はしていたが、やはり冒頭からもうだめだった。
しかしただ犬が出ているということに涙しているというだけでもなく(ほとんどはそうなんだけども)、ツイッターにも書いたのだが、いずれ訪れるであろう得体の知れない大きな不安感がつきまとう映画だった。
きな子は生まれながらに警察犬向きではないと言われていて、実際に物語を追っていっても警察犬としての行動が得意であるとは思えない。そうした才能であるとか、性格としての人間性(この場合は犬性)、またきな子を囲む人たちに訪れるどうにも逃れられない血縁や死に至る運命など、そうしたものが特別なものとして描かれず、常にそこら中に存在するものとして描かれ、同時に先に感じた様な不安が立ちこめることになるのだろうと思えた。
そうした不安を常に抱え込みながら誰もが生きているのだけど、その中でも常にしっぽを振り続けるきな子の存在が、それを内包しながら前向きに人々を動かしていた。

その後ハローワークに行って10月からの勉強のための手続き。
このことについては今の時点ではこれがどうなるかはまだわからないので、またいずれ書きます。

それから時間があったのでミナミに行ってレコードをいくつか購入。
それからヌーヴォで『恐怖奇形人間』をついに見る。
しかしこれまたまったく乗れず。
言葉の多い映画はよくわからんよ。
奇天烈なつながりや画面構成も結局最後には明智君に丸め込まれるというのもどうだかなー。

九月です

| コメント(0) | トラックバック(0)

多人数の空間で眠ることができない人間だということに気づいた一日。
みんな畳で雑魚寝しているところを一人だけフローリングで寝ていたのだが、方々から響く寝言やら寝しゃっくりやらの様々な音と携帯のアラーム音によってちっとも眠れなかった。
昔からうすうす感じてはいたが、おそらく眠りが浅いのだろう。それほど大きな音でなくてもいちいち目が覚めるし、それにアラームが鳴るってことはその人は起きなきゃいけないんじゃないかと心配になったりしてしまう。鈍感に出来てる方がどれほど楽か。でももうめんどくさいので勝手にアラーム止めたりもしたんだけど。何かの警報機の音みたいなアラームが鳴った時はマジで飛び起きたよ。

DJset.JPG

ちなみに昨夜のDJセットはこんな感じ。
本棚にスピーカーを突っ込むというのはなかなか気に入ったので、しばらくは編集しないといけないものもないしこれで生活しよう。

昼にみんなが帰ったあと、稲葉君と『ヤギと男と男と壁と』を観に行った。
『グッドナイト&グッドラック』の監督だから少なからず期待していたのだけど、これは一体何を物語っていたのかがまったくわからなかった。というのも全ては寝不足のためなのかもしれないけれども、語りの視点が超能力的なものをどの程度信じているのかが不明瞭で、実際に映画で描かれたような(予告編でも十分見える)力が実在するのかどうかは映画となった時点でどうでもいいのだから、「これマジかよ?」みたいな視点なしで描いてほしかった。馬鹿馬鹿しいことを馬鹿っぽく描いているのはいけません。
予告は良く出来てたんだなと観ながら思ったが、いや、むしろこれ本編への配慮なさすぎる。笑えるかもしれなかったところがちっとも笑えない。
何故かこのアメリカの超能力舞台のことを知っていたのは、この原作が阿部和重の『ピストルズ』で参考にされていたからだということも観ながら思い出した。
ジョージ・クルーニーが出ている映画は何故か観に行ってしまうし、どれも良かったような気がしてしまうのだけど、これはさすがにいただけませんでした。

7時に帰ってから寝たのだけど、変な時間に起きてしまって眠れなくなった。

気がつけばもう九月。
来週辺り、瀬戸内国際芸術祭に行ってからその流れでそのまま実家へ帰ろうかと思案中。
一週間くらいは帰ることになるのかなぁ。
久しぶりに釣りがしたい。

ということで本日は上田さんのお誕生日会、通称「上田わっしょい祭り」(※『サマーウォーズ』参照のこと)の日なので、珍しく午前中に起床し朝からせっせと会場作り。といっても自宅をDJしたりざっくばらんになんでも出来る様にセッティングするだけなんだけど。

その作業をしながらのDVD製作も上田さんが来る前にはなんとか終わり、パッケージまで間に合った。とても面白いものが出来たのにお見せ出来ないのが残念なくらい。

知性と野蛮さを同居させたのが人間という動物の動物性なのだろうとうすうす感じていたが、みなさんの芸達者ぶりに関心しっぱなしの一日だった。
とにかく集まりの悪い連中で、それもすべて誰かの連絡不十分のため。そうしてなんとか集まったら立ち所にバケモノが姿を現す。
小さい頃に夜は早く寝なさいと親に叱りつけられていたのは本来は理知的な大人達が野蛮な振る舞いをしているところを見せないためだったのだ。稲川さん、人間もおそろしいです。

睡眠のリズムがとにかく狂っているのでなんてことなく昼に起きてとにかく編集。
この数日でかなり形が見えて来た。編集そのものはつらつらとつるっと仕上げる感じ。
明日友人が集まるので、その時に何人かにこれをプレゼントしよう。
ということを考えていると、パッケージまできちんと作ろうという野暮な野望まで考え始め、ようやく編集は一段落、これからDVD化というところまで進んだのに、不慣れな作業を増やすことになってしまったが、きっとこれは面白いからやる。やります。

なんてことを時間がないのでせっせとやっていると、夜中に福井さんから電話がかかってきて、荷物を梅田まで取りにこいとのこと。
なんでこんな時間にそんなところへ出かけねばならんのだと気分が乗らない旨を伝えると「ほなもうええわ!頼みません!!」とキレられた。なんと理不尽なことか。

静かになった

| コメント(0) | トラックバック(0)

夜は稲川淳二の怪談を聞きに行くと上田さんから聞いていたが、チケットを買ってくれていた福井さんからこれまでにこの公演が何月何日にあると聞かされたことはなく、さらに驚くのはこの公演に行くかどうかの確認もないままにいつの間にかチケットを買っていたということ。

当の演目はというとこれが恐ろしいほどの名人芸で、喋りの上手さに舌を巻いた。
怪談話というものはおそろしいかどうかというだけでなく、人を真面目にさせたり感心させるものがある。

それからトライアングルへ行きDJという運動競技を観察。
基本的に細かな動きしかないのに、セラートやCDJとなると尚更その身振りはコンパクトだが、PCを操作し曲を選ぶ仕草からはノミを探す猿のような、奇妙な動物的なものを感じ、これはおそらくセラートによるものではなく、人間は基本的にPCを注視しマウスやキーボードを操作しているときが最も人間らしい動物性を備えるのだろうとかそういう考え。

まさかのリバース

| コメント(0) | トラックバック(0)

もやもやとした思いのまま世紀の荒仕事としてとある編集物に手を付ける。
三時間近いこれを30日までに編集出来るかどうかの見通しはたたないし、相変わらず着地点も見当たらないが、やっていくうちになんとかなるだろうとは思う。

前日のツイッターでのやりとりについて上田さんからダメだし。あの人はテキストを書くことはしないが、頻りにダメ出しはしてくる。
いろいろと反省はしたが、反省が次に生きるとは限らないということも理解した。

『魔法使いの弟子』の主人公は地下倉庫のようなところで巨大なテスラコイル(これって『コーヒー&シガレッツ』でホワイトストライプスの二人が扱ってたやつだよね?実在したんだ・・・)を使って音楽とプラズマを同調させる実験シーンは『ポーラX』の地下倉庫に眠っていたような野蛮さと芸術の融合と似たものを感じた。けれども本質的にはまったく異なる。少年時代の主人公がニコラス・ケイジと出会うまでの、好きな女の子からのメッセージが書かれた紙を追いかける流れは、いかにも映画が始まる流れ(風で飛ばされて、自転車のタイヤに張り付いて、犬の足にまでひっつく)は、いかにも物語が動き出す気配が溢れていて面白かった。

『キャッツ&ドッグス 地球最大の肉球大戦争』
ついに白状しますが、僕は動物の出る映画が大好きです。
何事に於いても、動物がそこに映って、何か思っているらしいものが見えたような気がしたらそれだけで無条件に涙が出てきます。これは映画に限らず、動物のショーなんかを見ていても涙が出る。
こうしたものに異常に反応してしまうのは、おそらく、動物は本心では何を考えているかなんてまったくわからないし、イルカショーなんかであれば露骨に餌の魚を食べたいだけでしかないのかもしれないけれど、純朴(そう)に精一杯働いている彼らが全力でそれを遂行している姿に泣けて来て、しかも彼らが思っていることとは無関係に映画という装置が何かしら捏造してしまうことに、それに対してまったく無抵抗であるということに涙するんだと思います。
だからこの映画でも頭から泣きまくりでしたけど、ネズミとか鳩とか悪役のネコはほとんどCG使っててそこはかなり退屈。
物語もイマイチ煮え切らず、山を見つけないままにいつの間にか山越えをしていた感じで、これなら『スパイアニマルGフォース』の方が良く出来ていたけど、あれはほとんどCGだからそこがつまらないんだよなぁ。
やはり『ビバリーヒルズチワワ』を超える傑作はなかなか撮れないらしい。


ということをさっぱり書いて寝ようと思っていたらツイッターでやりとりが長引いてこんな時間になってしまった。
僕はそもそも映画を観ていて寝ることは滅多にありませんし、もし寝たとしても恥ずかしいと思うのでその映画の話題が上がらない限り自分からはその映画の話はしません。寝てませんと嘘をついて隠すこともしないけれど、人にその事がバレる前に出来ることならもう一度劇場に出かけるし、それが出来なければその映画は観ていないことにします。
映画はそもそもスクリーンに映るときだけに存在するもので、それは限りなく幻視的な存在です。だからこそその幻を幻としないために出来る限りスクリーンをみつめて、自分の体内にその映画を染み込ませます。
不確かな幻はときによっては幻覚と呼ばれる類いの物でしょう。
だから「映画を観た」とはそう軽々しく口に出来る言葉ではないはずです。
それから映画に関わっていながら観たわけでもない映画について軽々しい言葉を並べる破廉恥な輩を見ると悲しい気分になりますが、これらはあくまでも映画に関わる人に対する言葉で、趣味として映画と関わる人にはこういう見方した方が映画が身近になって面白いですよ、とだけ言っておきます。

今日は朝からまたしても地獄巡り。
手当の種類が変わってから、一日50円貰える額が低くなった。

朝から映画を観ようかと思ったが、劇場を廻ってもちょうどいい時間のものがなかったので、家に帰って二度寝。

それから昼に起き、幻獣展を見に来ていた名古屋のTさんと大阪駅で待ち合わせ、それから一緒に横尾忠則のポスター展へ。
ポスターを通して60年代からの演劇や映画などの文化の変遷が辿れた。
西城秀樹の「白い教会」のポスターとGLAYのポスターはかなりやばい。
束芋は時間がなくて駆け足で見たのでなんとも言えないが、周囲でそれなりに評判になっていた正体はこれなのねと、なんとも納得がいった。つまり3Dと一緒で、平面的な物が立体化していることによる素朴な驚きと、そうである必要性を追求する思考によるものだということ。

中之島でお茶をして、ミナミに移動して食事を済ませたらもう名古屋へ帰る電車の時間になったのでお別れ。
前日に急に来阪を決めたということでフットワークの軽さに驚く。
あいちトリエンナーレのヤン・フードンのインスタレーションにまつわる面白い話を聞かせてもらった。いろんなものをいただいた。

今日みたいにいろんな人からいろんなものを戴いて今の自分はあります。
物として生きる糧をもらいながら、物と一緒に生きる糧の根源をもらっています。
多謝。


帰りに家の近所で去年まで学生だったチビ助に遭遇。相変わらずぎゃーぎゃーとうるさかったが、今の生活を楽しくやっている証拠だろう。元気さに気圧されたよ。

昼には起きた記憶があるのに六時からの海老根さんが企画されたリノベーションワークショップに行った記憶しかない。それまでの時間何をしていたのか・・・。

http://www.korpus.org/renov_ws/

大阪駅前に建っていた中央郵便局、今は使われていないまま放置され、今後もどうなるのかはわからないが、数年前、東京駅前にある中央郵便局を建て替えて高層ビルを建てるという計画があってこれも今ではどうなったのかよくわからないのだが、この騒ぎがあったときに、確か鳩山邦夫が大臣をしていて逐一陳腐な言葉を発していたのを覚えている。

それは確か郵政民営化直後のタイミングだったと思うが、東京中央郵便局の老朽化を理由に高層ビルに建て替えをする(東京駅前という一等地をこんなにも非効率な所有面積の建物が建っていていいのか!という言い分)となったときに、建築家側から「歴史的に非常に重要な建築であるから壊すべからず、外観のみの保存ではなく内部も含んだ完全保存をしなさい」との発言があり、それを受けて確か鳩山は「トキを焼き鳥にするようなことはしてはいかん」と言っていた。鳩山の言葉としての表現の下品さはなかなかのものだが、これには続きがあって、このあと中央郵便局を外観だけ保存して中身として高層ビルを建てる案なぞも出たりして、鳩山は「トキを剥製にして残す様なことを考えるべき」という発言をしていた。

ここでやりとりされているのは歴史建造物としての中央郵便局であって、建物としてまだ使えるかもしれないこの建造物についての話ではない。
使いもしない建物であれば、歴史として残すだけであるのならはっきりいって壊してしまってもいいんじゃないかとさえ思う。トキを薫製にして、おいしくいただいてしまってもいいんじゃなかと。


このワークショップで交わされていたのは、ドイツで戦前に作られた建造物を古いからといって壊してまた新たに建てるのではなく、これまで住んでいた人たち、その周りに居る人たちの意思を尊重して費用が建て替えよりも二倍も三倍もかかっても修繕、リノベーションをするというものだ。中央郵便局の一見で例えるなら、立て替えでもサファード保存でもなく、修繕によってまた新たに使えるようにするということだ。(ちなみに東京中央郵便局は古い建物ではあるが耐久性などに問題があったわけではないとも言われていた)
しかし意思を尊重するという、まるで善意的な行動であるというだけではなく、そうやってリノベーションすることこそがこれから先長い目で見たときに経済としても有効であるということを信じ、そして実際に2、30年前から行われて来たこの活動は確実に評価され、今では新たに建てられたものよりも数年前にリノベーションされたものの方が資産価値を持っているものもあるという。この政策によるところもあるだろうが、ハンブルグには外国人が多く住み、失業率もドイツ北部としては低いそうだ。


街に新しく建ったビルなどを見ていると、その新しさ、他とは違うということを殊更主張し、私たちはそれを眺めたり、あるいは出かけたりすることになるが、どうも街の中のそこにそのビルが建っていることの連続性(必然性と言ってもいい)を感じることができない。風景としてあまりにいびつなのだ。街の活動や私たちの生活と無関係なそれらが建つこと、そしてかつて繋がりがあったかどうかも定かでないような建物がいつのまにか取り壊されている日常の中で、いつの間にか「私」と「街」の関係性まで漂白されて分離されてしまっている。
おそらくそのことをドイツの人たちは感覚的に知っていたのだろう。だから「私はここに暮らしているのだから簡単に取り壊させてなるものか。新しい家が便利だろうときれいだろうと、今のこの建物と暮らしているのだ」と主張する。

海老根さんが撮影したハンブルグの映像の中に、リノベーションされるか取り壊すかが未決定の集合住宅が映されていた。そこには取り壊しに反対するアーティストが住んでいるとのことで、その彼らによるものだろう、集合住宅の壁に「ここから出て行かないぞ!」とメッセージが書かれていた。これはアーティストによる主張だが、その言葉の隣におばけのイラストが描かれているのを見て、きっと建物というのは、そこに生きる人だけのものではなく、おばけのような見えない意思をいつのまにか沢山含んでいるもののはずなのだと理解した。

合理性や利便性によって、いつの間にか何もかもを所有した気になってしまう。
郵便局を所有するのは日本郵政になるのだが、そこで働いた人たちや訪れた人たちの記憶はどうなるのだ。そして交差点を待ちながら郵便局の時計を眺めた人たちの風景をそんな簡単に無視してしまってもいいのだろうか。
大阪駅前の再開発を眺めると胸が痛いのは僕だけではないはずだ。

踊りません

| コメント(0) | トラックバック(0)

『踊る大捜査線 THE MOVIE3 ヤツらを解放せよ!』という映画を観たのですが、みなさんこの映画知ってますか?
織田裕二っていうタレントが警察の役してるんですけど、どう見てもただのサラリーマンにしか見えない映画です。

ここ数年、映画を沢山観て来たと思うんですが、この映画の中でスクリーンでよく見かける顔といったら、小栗旬と先日の『ハナミズキ』にも出ていた松重豊くらいでしょうか。スターなんてどこにも出ていないですし、スター的なオーラを感じさせる人も出て来ないので誰が重要な役かもよくわかりません。少なくとも松重豊はちょい役です。

物語がとにかくふざけていて、湾岸署を移転するとかで引っ越し作業をしている最中にいくつかの偽装された事件に遭遇。主人公の青島本部長(この肩書きは引っ越し本部のもの)は健康診断で怪しい影がみつかり、その噂はあっという間に広まりいつのまにかもう残された時間はわずかとなっている(そしてこの怪しい影も医者のミスだったと少し後に知らされる)。引っ越し作業中に拳銃が盗まれ窃盗犯は国民の命と引き換えに受刑者の解放を迫る。その対策本部が置かれている新湾岸署には最新鋭の警備システムが張り巡らされており、外部からの侵入者を寄せ付けない隔離措置をとることが出来るのだが、そのシステムを窃盗犯に乗っ取られ署内に残っている警官たちが人質にとられることになる。

偽装という主題で物語を展開し、その偽装の末に犯人は最後に何を成し遂げようとするのか、というのがこの物語だと言えると思うのだが、偽装をメタレベルでも展開してしまっているのでなんでもありになっている。それは醜いパロディと化す。
そういえば『ALWAYS 続・三丁目の夕日』という映画も偽物(或いは本物ではないこと)をどうやって肯定的に捉えて前進するかという話だったと思うのだが、一体自分が偽物ですということを認めてまで前進しなければならないものだろうかとそのときは不審に感じたが、この映画でもこれまでのこの映画というものまでもネタにして、それを楽しめというのはあまりにも退屈過ぎる発想ではないか。
こんなありきたりで全うなことを書いている自分が恥ずかしい。





last update 3.28